「カラオケ不可」の巻

 くるりの最新マテリアル「NIKKI」を聴く。シングルでは「ワールズエンド・スーパーノヴァ」以来のミニマル系「赤い電車」が素晴らしい出来だ。TR-808(だと思う)のビートと岸田繁の声は本当に相性が良い。「ワールズエンド〜」では909だったか。単にわたしの耳がリズムマシンの音を好いているということが原因にないわけではない。
 ところで、岸田はカラオケで歌いづらい曲を作ることにかけては天才的だと思う。「ワールズエンド〜」なんかはその典型であり、あれはもう本当に踊るか聴くかの二択でしか楽しめないものだと考える。かくいうわたしもくるりは聴くのがほとんどで「東京」「ロックンロール」がせいぜいだ。「赤い電車」も例によって唄いづらい。機械のビートが唄を拒否するわけではない。事実、カラオケの音楽は九分九厘シンセサイザーで作られているからだ。一方、DJに持っていくとなると一転して良いネタになる場合が多い。これは先の「ロックンロール」でさえ該当する。ちなみにこの曲は典型的なバンド・サウンドであり、全編打ち込みによって作られた(であろう)「ワールズエンド〜」とは対極に位置する音楽ですらある。だのに、DJにおいては共に良質なレコードだ。この矛盾は何に由来するのか。
 要するに岸田繁とは声を音として使うことに長けているのだと考える。例えばゴスペルなんかは完全に音ではなく声の「声性」を重視したものであり、ア・カペラでも充分聴くに堪えるものだ。岸田の歌は歌として独立させることが非常に難しい。バックトラックと絡み合って初めてその魅力を放つのだ。ゆえに、バックトラックだけでは成り立たないし、歌だけでもその感動は薄れてしまう。ここにカラオケの不可能性が生じるわけだ。乱暴に言えば歌もののように聴けるがその実インストゥルメンタルでもあるということである。その証左として歌詞のリフレインや直接的意味の薄さが挙げられる。しかしながら現実にくるりの楽曲を頻繁に歌う人間は確かに存在する。わたしは彼らに反発する気はさらさらない。ただわたし自身がカラオケで選曲する際に躊躇を覚えるというだけである。