「青年パンク」の巻

 自分はパンクが好きなのだと自覚した。これまで自身の音楽に対する興味は電子音楽に向いており、クラフトワークからグリッチデトロイトテクノ、トランス、ガバとまず根幹に電子音があることが基調だと思っていた。が、どうやらそれとて「パンク」という概念の下にあるようだ。前衛ではない。グリッチあたりは確かにアヴァンギャルドだけれどトランスやガバは違う。要するに姿勢がパンクなのだ。「前衛」というと紳士なイメージもあり、当然自身のそれとは相容れない。
 実際に音楽としてのパンクにわたしはそれほど詳しくない。せいぜい「NO NEW YORK」程度だ。この考えを広げるとBeastie Boysもパンクに該当する。彼らは「伝統」である「ヒップホップ=黒人音楽」という固定観念を打ち破る存在であり、そのスタンスそのものがパンクなのだ。YMOも同様である(彼らの場合は音楽としても存在していたけれども)。思い返せば高校時代に周囲はギターロックに満ち溢れていた。わたしがこの時分にEarth,Wind&Fireに走ったのもこうした精神があったからなのだろう。最も表層化したのが浪人時代であり、つまり頭脳警察への傾倒だ。ここで初めて直接的なパンク(=音楽としてのパンク)が出てきたのだと思われる。
 「21にもなってパンクもないだろ」と感じる自身も確かにいる、世間的にもそうかもしれない。しかし、そこを敢えて、というのがパンクではないか。わたしがユーロビートと音響系とを並べて聴くのは別に不自然でもなんでもない。どちらも反一般的という点で合致しており、つまりパンクなのだから。その証拠に現在、携帯HDDプレイヤーの「now favorite」というフォルダには一曲目にNew Orderの「BLUE MONDAY」、二曲目に「DANZEN!ふたりはプリキュア」が入っており、やはり反一般的である。
 阿部和重もパンクである。パンクとは馬鹿の一つ覚えのように反抗して新しいものを生み出す存在だ。阿部和重の作品はどれも「近代(=個を求める)文学」のためのアンティであり、いうなれば「個を喪失した文学」である。新概念や前衛といった婉曲した反抗ではなく、正反対を提示するという単純なそれはつまりパンクであると考える。
 文学と音楽、概念は目下わたしのすべてである。言い換えればわたしを構成する要素の中核はパンクなのだ。どっからでもかかってきなさい。