「省察」の巻

 2005年最後は黒人音楽について書いておこうと思う。といってもわたしは20世紀以降の音楽の切れ端しか見えていないのだが、とりあえず書くことにする。
 わたしにとって音楽はそれが自然であればあるほど心地よい。エリック・サティが提示した「家具のとしての音楽」やブライアン・イーノの目指す「無視することもできる音楽」はその究極であるといえよう。従って音楽が生活に溶け込むためにはその製作の過程において、生活に根ざしているものほどよろしいということになる。アフロアメリカンの音楽にはそれらが確かに存在した。モータウンの音楽が「SOUL」とカテゴライズされるのは果たしてその言葉の示すとおりであった。彼らの根幹には教会がある。つまり賛美歌である。賛美歌とは現前する歓喜を賛美するのみならず、来たるべき歓喜を求めるものでもある。それは虐げられてきた歴史を持つ彼らには至極当然のアクションであった。レイ・チャールズがゴスペルをスロウ・ジャムとして再構築したのも頷ける話である。
 80年代に入って、ブラックミュージックには岐路が顕れた。ヒップホップ、シカゴハウス、デトロイトテクノの三つである。いずれもサンプラーシンセサイザーといった電子機材の恩恵による。サンプラーを世界で初めて本格的に取り込んだYMOも影響としては当然存在しただろう。これを踏まえて三つの全てを一言で表すならば「再構築」の音楽である。貧困層であるがゆえに安価な機材とボロボロのレコード、そして決して上等とは言えない音楽的知識しか彼らにはなかった。そこで生まれたのがこれらの音楽なのだ。やはり生活に根ざしている。本日「おすすめレビュー」として取り上げた二枚はその好例だろう。往年のソウルナンバーからゴスペルまで幅広くサンプリングの対象とするカニエ・ウェストと、ミニマルミュージックを地で行くアンダーグラウンドレジスタンス。いずれも彼らは常に自らの周囲にあった「音」を音楽へと昇華させる人々である。ヒップホップの韻を踏むという行為はそれこそ英語の古詩から脈々と受け継がれる手法を乱暴にしたものだし、金がないゆえに同じビートを反復させるミニマルテクノが生まれた、そう、いずれも反復である。しかもそれは人間の遺伝子に刷り込まれているかのようなリズムなので倦怠を引き起こすことはない。人間とてメカニズムだけ見れば心臓の鼓動という単調なビートによって生きているのだから。また、考えてみればエレクトロニクスによるアクションは須らく反復である。データを記憶するだけでは何の役にも立たない。真に求められているのはそれを正確に再現することである。そこに人間は満足を覚えるのだ。
 つまり、黒人音楽の根幹には常に生活があり、それを再現しているがゆえに人々を魅了して止まないのである。

 今年は以上です。また来年。