「ism」の巻

 田山花袋「露骨なる描写」を読む。硯友社の総帥、紅葉没後に発表されたこの論は紅葉、露伴、逍遥、鴎外全盛の時代にあった「文体主義」とも言うべきムーヴメントを「白粉沢山」、つまり粉飾に感けて中身を失う虞があると真っ向から否定し、内容の直接的描写を礼賛したものである。この論にはいくつかの問題がある。
 一つ目は小林秀雄も述べているように花袋が自然主義、もしくは私小説の由来を理解していなかったことだ。西欧に発するこの文学スタイルは自身を克明に描写することで自身を確認することを主な目的としていた。その裏にはキリスト教の基本概念のひとつ、「神の下の平等」がある。平等であるがゆえに人は自身の存在証明を「差異」をもって行わねばならない。その手段として自然主義私小説があった。花袋はこの事実を理解せずに文体装飾主義への反発として「露骨なる描写」を支持したかのような姿勢が窺える。
 二つ目は、紅葉ら文体主義者たちが文体粉飾の背景、それを批判する花袋でさえ心得ていなかったことだ。なぜ西欧において様々に文章への粉飾が施された文学が成り立ったかというと、「書く」というアクションそのものが忌み嫌われていたがゆえである。彼らにとって言葉とは畢竟「話されるもの」であって書かれるものではなかった。翻って日本は小説という次元においては世界最古の歴史を持つ国である。この相違を文体主義者も花袋も見抜けていなかった。この点がわたしには残念でならない。行為の裏に思想があることは必然であるはずなのに、その必然を理解していなかったからだ。
 おそらくこれらを総括すると、今まで日本には自然主義私小説も存在しなかったと言えるし、逆に日本独自の文学史を為したとも言える。後者はやや楽観的だけれども。いずれにせよ、日本の近代文学は誤謬から出発しているようである。

 今回は以上です。