「表現とは何の謂ぞ」の巻

 「この映画が好き」ということはあるけれども「この人の関わっている映画が好き」ということはほとんどない。それは主演であれ、監督であれ。わたしは栗山千明さんが好きなのであって「Kill Bill vol.1」のDVDを観るのであり、監督がロバート・ゼメキスだから「Back to the future」に惚れこんでいるのではない。しかし、監督においては例外が二人いる。ひとりは小津安二郎である。その醸す雰囲気をさることながらカメラを地面に置くという手法を生み出した点でも彼への評価を避けて通ることは出来ない。恥ずかしながらすべての作品を見たわけではないが、そして陳腐な言い方だが致し方なく心を打たれる。もうひとりは、今回の主題であるスタンリー・キューブリックである。我が家にあるDVDは「2001年宇宙の旅」「フルメタル・ジャケット」「時計じかけのオレンジ」の三つだ。わたしにとってこの三作品がキューブリックの最高峰である。
 彼の作品の魅力は容赦がないところである。台詞や映像には一切の無駄がない。「フルメタル・ジャケット」に登場する宿舎の床を見たまえ。天井が映るほど綺麗に磨き上げられている。「2001年宇宙の旅」ではどれもが「未来」であり、現実と非現実の中間点を見事に描き出している。また、「時計じかけのオレンジ」では作家の家を土足で荒らし、仕事机や本棚を蹴倒し、細君を裸に剥いて強姦する(さすがに強姦そのもののシーンまでは描かれていないが)。ここまで作品に自身を投影し、また、できる人間をわたしは他に知らない。人は何かを表現する際にそのデヴァイスに否が応にも従わなければならない。小説であれば登場人物を用意する必要がある。音楽であればいずれかの音階に分解して組み込まれざるを得ない。絵画であれば(普遍的な意味での)カンバスでしか繰り出せない。当然映画でもそうだ。映像・音響技術には限界がある。昨今のCG技術には舌を巻くかぎりだがキューブリックの時代にそこまでのものはない。ゆえにリアルにすべて用意せねばならない。
 考えるに彼は徹底することにより限界を突破しようとしたのではないか。どこまでも雄大でかつ未知なる世界、非情な罵倒と過酷な訓練、暴力やレイプに対する耐え難い欲望というものを最大に表現することによって、作品を自身の真に表現すべきものへ近づけたのである。そこに所謂「受け取る側との対話」というものはない。彼は自分のことで精一杯だからだ。それは上田秋成でいうところの「恐怖」であり「魔」である。「時計じかけのオレンジ」の最初では朱が画面を覆うシーンが数秒続く。これは「活動写真」たる映画にはあるまじきものだが、これだけの前奏がこの映画と彼には必要だった、いや、必要でないはずがない。そして、この「不可思議」は「不安」となって視聴者の心を侵し、それは作品全体への印象の起点となる。これは何もキューブリックが観る者の不安を引き起こそうと考えたのではなく、彼自身が描き出そうとした何かを極力直接的に表現し、それが観る者の感性と接触した際の結果として違和感が存在したにすぎない。この表現者に出逢えた経験をわたしは嬉しく思う。

 今回は以上です。