「はるかなる故郷」の巻

 映画「耳をすませば」は、わたしが唯一DVDで所持しているスタジオジブリの作品である。この映画はOlivia Newton Johnの「Take me home,Country road」が本題ではなくとも通奏低音、またオープニングテーマとして用いられていて、本名陽子さん(劇中では主人公の雫役を演じる)による日本語版「カントリー・ロード」を主題歌としている。ご存知の方も多いやもしれないが、実は原曲と日本語版では歌詞の内容が驚くほど違っているのだ。双方の歌詞は以下を参照されたい。
 端的に言えばオリジナルヴァージョンは遠く離れた地で故郷を偲ぶ歌であり、日本語詞は懐古する自身から故郷を断ち切る歌である。要するに正反対の構図なのだ。これは由々しき事態である。訳詩というのは本来、原詩を生かしつつ、しかし原詩とは異なる世界を描くものであって、多少の逸脱はあるかもしれないが、真逆ということであっては決して宜しいこととは言えないのではなかろうか。一応作中では主人公の雫(中学三年生)が訳したものという位置づけになってはいるものの、これではいくらなんでも酷すぎる。
 さて、ここで一冊の本をご紹介したい(別に本題と無関係というわけではない。念のため)。思潮社刊「僕にはこう聴こえる」という本だ。これは日本のさまざまなミュージシャンが洋楽の詞を意訳したものなのだが、ほとんどが原詩のイメージから遠く離れてしまっている。例えば大槻ケンヂによる「Saturday Night Fever」などは、なぜか週末の夜に人を殺しまくる少年の歌になっていたりする。他にも町田町蔵真島昌利など錚々たる顔ぶれが独特の「意訳」を披露しているのだ。
 つまり、日本語版「カントリー・ロード」もこの脈に通じているのである。確かに原詩は故郷を懐かしむ歌だったが、この作品は月島雫という女の子の成長を描く物語であった。これではストーリーと曲とがかみ合わない。雫は作中でさまざまの経験をし、幻想を夢へ置き換えることにより、ひとつの終わりを迎える。別の言い方をすれば、新たな始まりを描いて終わる映画である。ここでは訳詩というアクションが生きるのだ。日本語版の歌詞は畢竟雫の立ち位置と心境であった。故郷という「イメージ」を切り捨てて前に「存在する」道を行く。原詩とは正反対の描写ではあるもの、間違いなく原詩なくしてあり得た歌詞ではなかった。これはかの定家も行った描写の拡大という作業である。そして、この拡大作業こそが意訳の本質のひとつであるとわたしは考える。