「普遍的願望」の巻

 日本テレビが社屋を移転する直前の汐留に行く機会があったのだが、実に衝撃的な出来事だった。いくつもの巨大な機材と掘り下げられた地面、場違いな観葉植物に前衛的なオブジェ、すべてが情を一切感じさせないくらいの見事な「テクノポリス」っぷりであった。何もかもが作り物で、動く人間さえ実際に生きているようには見えない。オーロラビジョンに映る戦争のニュースも現実感がない。つまり、俗に言う「人間味」がない。そのはずなのに、なぜか興奮している自分に気がついた。精密で無機質なものに触れたときに発せられるこの高ぶりは何なのか。決してそこに「わずかな人情の片鱗」とかを見たわけではない。その容赦なさに被虐的な悦びが芽生えたことも否定は出来ないが、それとも当てはまりそうにない。
 おそらく、これは人間の本能的な超人思想であると定義する。人間のバイタリティの源であり、発展の糧であるこの思想は珍しいものではない。例えば空を飛んでみたいという願望もここに基づくし、オリンピックだってここに属するだろう。だが、思想はひとつであっても手段はそうとは限らない。ここでは大きく二つに分けられる。「自身の鍛錬」と「技術の進歩」である。前者はその名の示すとおり、自らの身体そのものを向上させて超人的な能力を得んとするものだ。それはフィジカルな結果のみならず、記憶や思考といった面にも相当する。他方の「技術の進歩」は、「超人」への道を機械によって補完し達成しようとするタイプである。映画「2001年宇宙の旅」冒頭のシーンはまさにこの手段による結果を映した世界だった。だが、ここでもやはり方法は二分される。機械を自らの外側に設けるか、内側に組み込むか、である。前者は家電製品のように道具を設置して利用し、後者はペースメーカーが良例で、機械を体内に同化させるのだ。人がサイボーグに憧れるのもここを考えれば頷ける話である。
 ここにおいてひとつの逆転現象が起こる。超人思想に端を発する「技術の発展」が、むしろそれ自体を快楽の元としてしまうという事態だ。以前「蛇のピアス」感想文にも書いたが、身体を改造することそのものが悦びになるわけである。核弾頭の開発も実はここに当てはまるふしがあるとも考えている。つまり開発すること自体に楽しみを見出してしまったわけだ。これは誰に責められるわけでもないのがタチの悪いところだろう。ただ、国や世界の法で規定されている以上、何かしらの罰則は受けるわけだが。やや脱線したが、機械技術が高度に発展した状況に揺り動かされるのは、こうした逆転現象の為せる業であり、わたしのえもいわれぬ興奮を覚えたのもここに理由があるのだ。また、人間的、情愛的な要素を失えば失うほど高まるわけである。そして当然のことだが人間が生きていくにはある程度の本能を押し殺さねばならない。

 今回は以上です。