「笑いの基本」の巻

 雑誌「ユリイカ」に掲載されていた、浦沢直樹あずまきよひこ両先生のインタヴューを再読。どちらの作品も現在、単行本を買い続けている(それぞれ『20世紀少年』と『PLUTO』、『よつばと!』)ので個人的には非常に読む価値があった。今夜はあずま先生の方から。まず、聞き手であるはずの伊藤剛氏がはしゃぎすぎな印象を持つ。序盤にも片鱗は見せていたものの、終盤で「あずま作品ファン」の本性が丸出し。少し落ち着け。最も笑ったのは突然出てきた里見社長である。何の脈絡もなく普通に話に入ってきていたので爆笑しつつも、これぞ「よつばスタジオ」の間だとある意味で感心。以降は細かいところを。
 「設定を決めたくない」という主張が全体に見て取れた。「あずまんが大王」は昨今の学校モノ漫画にありがちな円環を避けた構造、つまり主人公たちに歳をとらせて、高校生活の三年間できっちり終わらせるという珍しい形態をとっていた。一方の「よつばと!」は確かに言われてみればほとんど登場人物に対して設定がなされていない。「あずまんが大王」で拘っていた時間の流れさえも排されているのだ。「夏休みの前日」からこの漫画は始まっているのだが、単行本が3巻目に入ってもまだ「夏休み」は続いている。伊藤氏の「『夏休み』が終わったら『よつばと!』も終わるのか」という問いに対して、あずま氏は「何事もなかったかのように九月一日が始まるという感じにしようかと」と答えているし、事実、どう終わらせるのかは未だに考えていないらしい。ここまで「設定」が組まれていない漫画をわたしは他に知らない。対して、「存在」に関しては思い入れが強い。釣りのシーンを描くときには実際に釣りに行ってみる、買い物のカットが必要なときにはスタッフと一緒に買い物に行くなどの「取材」も積極的に行っている。他にも「基本的に背景を書き込む、それからカメラの位置に意識的な画作り」という発言からも、漫画における「存在」を重視しているのがわかる。わたしがここで思い当たるのは、「あずまんが大王」に登場する眼鏡の描写である。近視用眼鏡をかけている人を斜めの角度から見ると、レンズの屈折により輪郭が凹んで見えるという現象があるが、これが(よほど細かいカットでないかぎり)須らく描かれているのだ。この事実を発見したときはその細かさに感服したものである。
 最も印象に残ったのは、終盤の子どもに対する氏の印象である。それは「まだ人間じゃねえな、こいつらという面白さ」という一言に集約される。小林秀雄はこの点をして嘆息したが、あずま氏はここに「面白さ」を感じているようだ。では、その「面白さ」の正体とは何か。それは予測の不可能性である。ベルクソンによれば「笑い」とは「予想されるべき行動の不可能」であるという。例えば、式典でスピーチをする人がしっかり礼服を身につけ、慎重な面持ちで壇上に登場する。ここで予測されるべき行動は、彼の意見が流暢に話されることだ。しかし、ここで声が裏返ると忽ちに「笑い」が起こる。さらにここで「笑い声が起こる」という予測を「理性によって場内の人々が笑い声を抑える」という状況が裏切り、さらに笑いは増幅する。子どもの行動には、その予測の不可能性がある。しかし、そこに「子ども」という存在の確証がなければ、予測自体はそもそも不可能となってしまう。ここで、笑いにはもうひとつの要素があることが導かれる。それは「存在の確かさ」だ。「存在の確かさ」と「存在による行動の不可能性」、これが笑いを引き起こす。これをあずま氏の漫画に置き換えると、ズバリ「存在」と「設定のなさ」となる。氏の作品に描かれる「笑い」は、実は、笑いの本質だったのだ。

 今回は以上です。