「敗北宣言」の巻

 テキストでコントを書かないのは、書けないから書かないのだ。「絶対これより面白いものってあるよな」という思いが頭の中を過ぎってしまい、途中まで書いたものをゴミ箱へ放り込んでしまう。そして、その対象は往々にしてスネークマンショーなのだ。スネークマンショーの名作に「これなんですか」がある。きっとこれを超えるコントはあと五年は現れないだろう。他にも「ここは警察じゃないよ」「はい、菊池です」「国際越谷カントリークラブ(ヘリコプター編)」など、他の追随を許さないクオリティの作品が揃っている。
 スネークマンショーは音楽番組だった。そうカテゴライズして間違いはなかろう。当時の最先端の音楽をかけ、新進気鋭のアーティストへのインタヴューも積極的に行っていた。それはきっと「ローリング・ストーン」誌日本版の編集者であった桑原氏の人脈および行動力とスネークマンこと小林氏の巧みな英語によるところが大きいに違いない。が、それでも傑作と呼ぶべきコントが今でも語り継がれるのは、もうひとりの重要人物である伊武雅刀氏の存在あってこそだろう。現在でもラジオやテレビCM、ドラマなどで活躍されている演技に優れた俳優である。氏がコントで「見せる」演技はまさに「見せられた」という印象を持ちえるだけの質を誇っている。が、それ以上にコントにおける練りこみは、俳優である氏の腕が感じられる。逆を言えば、コントの中に「舞台に立つ者」の存在が息づいている。これは決して頭の中だけでコントを作る人間には出来ない芸当だ。
 コントでモノを言うのはその設定である。誰がどのような立場でどのような状況に巻き込まれているか、これを会話の中に成り立たせねばならない。この条件を満たすだけの腕を手に入れるには、条件に見合った状況に身を置くのがもっとも手っ取り早く、また方法として優れているだろう。それをテキストに置き換えるとどうか。これまで、わたしはテキストはやはりテキストなりの場というものがあり、「台本」とは全然違うものだと考えていた。が、先日の経験によりそうでもないことが明らかになったのだ。つまり、コントを理解する人間にしか書き得ないテキストというものが存在するらしい。文章は文章、と割り切ってしまうのはなかなかにもったいない話である。音楽に身をおく人にのみ書ける文章もあるだろうし、逆にテキストの世界の人にしか作れない音楽もあるだろう。こうした、場違いな主体によって生み出されるものはきっと新しい。確かに構造的な面での欠陥はあるかもしれない、しかし、作品そのものが発せられるのは独特な空気である。これは、発見というレアなイヴェントに立ち会える珍しい機会だ。ゆえにわたしはここに価値を置くものである。