「世界的批評」の巻

 ウェブログスペースはいよいよもって世間に浸透してきたようだ。こうなれば60億人総批評家時代も決して遠い話ではないとつくづく思う。ことに日本では、こうした時代が四半世紀ほど前にもあったのでその増殖と見て構わないだろう。言うまでもなくその前例とはニューアカデミズム・ムーヴメントである。
 では、80年代のニューアカとはいったいどんな風潮だったのか。京都大学助教授(当時)であった浅田彰の「構造と力」などの哲学書を平生、哲学に興味を示さない人々が挙って読んだという奇妙な現象にすべては集約されるように感じる。つまり、一般人が本格派の教養を取り込もうとする動きである。これがニューアカの最も簡潔な姿だ。当然ではあるが、こうした「一般人」諸君に「本格派」の言葉が理解されていることは九分九厘ありえない。だが、それでも彼らにとっては一向に構わないのだ。なぜなら、「本格派」の言葉は彼らにとって研究対象ではなく、参照する資料として存在すればよかったからである。そして、軽薄さゆえに資料の質ではなく、その量がステータスとなる。深い教養もない一般の人々が、様々のジャンルの「本格派」を引き合いに出し、自身の好悪と共通する点をピックアップして提示し、その好悪が「正しい」かのように(好悪は常にノン・スタンダードであることは言わずもがな)粉飾する。これがニューアカの基本的な構造である。
 ブログの特徴的な機能である「トラックバック」はまさにこの構造にとって理想とするツールである。簡単にクロスリファレンスを世界的に設置できる――この「世界的に」というところがさらに機能を甘美なものにするのだ。もはやここでは参照先そのものの権威は必要なく、距離でもってそれを補えるからである。別に同じ考えの人が世界に十人いたところで何の不思議もないと思うのだが、世間様はそうでもないらしい。主体が不特定多数である「ニュース」だと殊更に権威を及ぼすようだ(しかし、この場合は論じる主体にのみ『権威』が装備される)。知識のあり方は、どうやら80年代からあまり変わってなさそうである。