「六弦」の巻

 NHK総合音楽・夢くらぶ」を観る。ゲストは加藤和彦坂崎幸之助。当然、ザ・フォーククルセイダーズに話題が向かうわけだが、2002年に坂崎氏を迎えて再結成していたのは知らなかった。そのころのわたしは辛うじて「帰ってきたヨッパライ」の7インチシングルを持っていた程度で、フォークにもURCにも興味は向いていなかったように覚えている。今回、もっとも印象に残ったのは用いられた楽器の多彩さである。冒頭の「悲しくてやりきれない」の三線、「あの素晴らしい愛をもう一度」(これはフォークルではないけどそれはそれとして)の12弦ギター、「感謝」の篳篥など世間一般で言うフォークでは考えられないような楽器が登場していた。後にミューテーションファクトリー名義の「イムジン河」を聴き、「帰ってきたヨッパライ」とのギャップに舌を巻いたものだが、それと同じような興奮があった。つまり発想の広さである。
 思えば、加藤和彦という人の遍歴を鑑みてもそれは十二分に窺える。反則思考がない、とでも言おうか。何せミカ・バンドとフォークルが直結してしまうだけのキャパを持ち合わせているのだ。しれっと「再結成」を行なってしまうフットワークの軽さもここにあるのかもしれない。それはきっと氏が番組の中で語っていた「アマチュアリズム」という一言に発せられるのかもしれない。すなわち「好きなことをやる」という姿勢だ。言い換えれば、手段そのものを目的に変えない意志の純粋さである。高橋幸宏が「Listen Japan」のインタヴューで放った、「聴き手に寄り添ったものを作ろうとは思わない」というコメントに類するものがある。
 人は何かに属すると往々にしてそこから抜け出せなくなる。日本文学を学ぶ人間が英米詩を読んではいけないという法はないし、かつてアコースティックで鳴らした人間がエレキギターを抱えたからといって非難される理由もない。が、カテゴライズは先入主となり、目を曇らせるのはある種の必然だ。畢竟、クリエイティヴィティとはこうした必然を破壊することから生まれるのではないか、と考える。