「晴耕雨読」の巻

 昨日、やっと図書館で阿部和重グランド・フィナーレ』の単行本を借りることが出来た。で、おまけの三作は正直どうでもよかった。「新宿ヨドバシカメラ」「20世紀」はともに阿部和重お家芸である「啓示」モノで、特に目立った印象はない。「馬小屋の乙女」はどう考えても十日程度で書き上げた、というくらいにお粗末なものだ(別に舞台が神町じゃなくてもよかったんじゃないのか……?)。というわけで卒論の過程になるかもしれないだろう(という期待を込めて)「グランド・フィナーレ」への考察を今回の日記としよう。
 今まで見落としていて恥ずかしいかぎりなのだが、時系列で並べると「シンセミア」→「ニッポニア・ニッポン」→「グランド・フィナーレ」となるらしい。神町の人々にしてみれば蕎麦屋「とうや」の冷え込みも「シンセミア」で起こった数々の事件の一環だったのかもしれない。ここで考えたいのは沢見の立場である。妻に三行半を叩きつけられ、愛する娘とも逢えなくなってしまい、折角の「再会」計画も潰えた(ここにおいて『炭酸の抜けたコーラ』とはなかなかにうまい表現である)。職も失い、養育費を振り込み続けるだけの生活に投げ出された彼の状況は、神町のそれと似ている。つまり嵐の事後処理である。水害に遭い、何人もの人間が死んでいった神町の陰鬱さと沢見の絶望感。当然時期が冬というのただ時節的な意味としてのみ用いられているわけではないだろう。だが、相違点もある。とりあえず神町では再開発が進んでいるらしく、「わたしのようなたまの帰省者にとっては移動がしにくくもなって、少しばかり唖然とさせられた」というくらいに風景が変わっている。が、一方の沢見は「正直な話、自分自身の先行きなど、もうどうでもよかった」とあり、疲弊しきっていて光明は見当たらない。確かに石川麻弥・鴇谷亜美との作業によって一応の気力は取り戻すものの、その先が無い。「アカルサハ滅ビノ姿デアラウカ」(『右大臣実朝』)という文句が相応しいかもしれない。
 また、「グランド・フィナーレ」は、阿部和重のこれまでのスタイルから離れた作品であるとしたが、実際はそうでもない。例えば「啓示」はジンジャーマンによって与えられているし、何より真相が一気に明らかになるオチもないわけではない。後者はクラブxでの伊尻隼人の長台詞である。それまで「ポータブルストレージ」の中身は「ちーちゃんの肖像群」としか書かれておらず、「他所ん家の子の裸」に関しては登場しない。元妻との破局の原因はおそらくここにあるのだろうが、直接、沢見によっては言及されない。少女のポルノグラフィに手を染めていたことに関して彼の口から語られるのはビジネスホテルでIと話した際であり、それこそたったいま思い出したかのような登場である。だが、これはオチではなく山場である。ここをして「現行スタイルの放棄」という視点は確かに間違ってはいない。けれども、これは次のステップへの「放棄」であると(ファンとしては)考えたい。この小説には沢見、神町、そして阿部和重の「グランド・フィナーレ」がある、と位置づけるのは強引だろうか。
 最後に、もうひとつわたしは「グランド・フィナーレ」の通奏低音を為すテーマを見つけたのだが、これはまだまとめきれていないので次の機会に。

 今回は以上です。