「一端」の巻

 七尾旅人のディスクを繰り返し聴いている。ヴォーカルをとる人間の声色は何物にも似ていないということを遅ればせながら再確認した。シンセサイザーの技術は進化し続けるだろうが、人間の声だけは楽器屋に並ぶことはないだろう。Johnny Rottenや横山剣がなぜヴォーカリストであるか、それはきっとその声の色が濃すぎるくらいに濃かったからに違いない。誰にも、何物にも真似できない声。前述の七尾旅人もその例外ではない。一応「森田童子にイコライザをかけた感じ」とは形容したものの、その形容が100%当てはまるようにも思えない。
 ここで、なぜわたしが歌詞を書けないのかという疑問に対する答えが見つかったようにも感じる(曲すら書けてないじゃないか、という点はご愛嬌)。つまり、わたしはわたしの声色を理解していないから、書けないのだ。自身の声を感じ取ることが出来れば、その声を生かし得る詞が書けるはずだ。これは歌詞のみならず創作全般においてさえ、わたしには当てはまる。小説を書いたり、絵を描いたりという創作作業は困難だが、小論文であればそれなりに(少なくとも大学の講義でA判定をもらえるくらいには)書ける。なぜなら、論には表情が無い。むしろ表情を消さねば論ではないと表したほうが的確かもしれない。細部にわたり主張をめぐらせ、修辞のひとつひとつに気を配り、反論の余地を与えないことを前提とする。「感情論」は結局のところ、論ではないのだ。
 歌声を発するということ、その理由と必然性を担うのはその声色の持つ特徴の豊かさである。別にそれはオリジナリティのみが原因として機能しているわけではない。その声で発することによって、発せられた言葉が文で記されたり、別の音で表されたりするよりも深くそのイメージを伝えるという効能にその原因があるのではないか。翻ってわたしの声にそのような力があるとは思えない。したがって、文章でもって何かを表現する。それは勿論、わたしの考えや脳に浮かんだ言葉を、最も純度が高い状態で発信できるデヴァイスが文章である、という理由にすぎない。他に何かしらの手段が見つかればその限りではないが。