「残滓」の巻

 絲山秋子沖で待つ」を読む。さんざん叩いて申し訳なかった。結構面白い。序盤で食らわせておいて、追憶でラストまで引っ張って、随所に衝撃を織り交ぜていくという構成はなかなかに秀逸。全体が薄味な印象を受けるけれども、じゃんじゃん盛り上がったら興醒めしてしまっただろう。静かに流れるのがもっともよろしく、それを理解しているかのような中身だった。物語自体はそこまで興味を惹かれるものではなかったけれど、その修辞とか仕組みには驚嘆させられた。普通にいいもの書けるじゃん、スカトロとか使わなくてもいいじゃん、という点で再評価。マイナスがゼロになったくらいだが。就活で日々を送っている人なんかが読むと気休めにはなるんじゃないだろうか。ひょっとして「元気が出てきた」とか言う人もいるやもしれないが、それはそれで一向に構わない。単にわたしが実感できる境遇になかったというだけである。
 印象的だったのは山場のHDDを壊すシーンだ。パソコンが社会人の標準装備になって数年が経つが、やはり個人所有機のHDDは死ぬ前に破壊しておきたい、と思う風潮は少なからずメジャーになりつつある。以前、Rhymester宇多丸も「一番盗まれると嫌なのはPCかもしれない」と語っていた。人間というのは不思議なもので、死んだ後に自身の意識は残らない、意志を形に出来ないと知っていながら、死んだ後の身辺を気にする。例え他人には見せたくないものを自らの死後に見られたからといって後ろ指を差されるわけではないにも関わらず、である。それだけではない。「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」という言葉がある。自らのイメージを出来るだけ「善い」方向で世界に残したいという願望もあるはずだ。随分と身勝手な発想だが、それはもはや本能に近いレヴェルで存在しているのではないか。
 阿部和重グランド・フィナーレ」でも松尾スズキクワイエットルームにようこそ」でもこのテーマは描かれていた。つまり、遺すものとそれが他人に引き起こす影響である。「グランド〜」と「クワイエット〜」ではやや否定的に捕らえられていた、要するに遺書とか渡されても迷惑なだけで、それは死者が生者を縛り付ける呪いであると。翻って「沖で待つ」ではどうか。ここはかなり微妙だ。少なくとも否定的には扱われていない。その対象が「自分の恥部」であるから、という点もあるだろうが、要は遺す対象ということではないか。それでも呪縛は発生するだろうが。人は、他人に忘れられることを恐れ、ゆえに遺す。それは造形物であったり子孫であったりと形状はさまざまだ。あまり好きな言葉ではないが、時と場合により、その存在の価値は変わる。ここで、自身の問題に置き換えると、どうやらわたしも「太っちゃん」と同じ立場になりそうだ。しかも、遺す相手がいない。どうやら、この「遺す相手」に出逢えるか否かが人生の中心を為す一部であるかのように想うのだ。
 俊★氏とかばぬぅ氏あたりは疲れた頃に読んでみるといいかもしれない。短編なので一時間もあれば充分だろうから。かくいうわたしも「就職も悪くないかも」と思った次第である。

 今回は以上です。