「隙間産業」の巻

 NHK教育「私のこだわり人物論」を観る。パーソナリティは美輪明宏、対象は寺山修司。70年代の混沌をそのまま体現してしまったかのような存在として寺山を描いていたように感じた。確かに彼はカオスである。まず肩書きが不明瞭だ。小説家であり、戯曲家、詩人、エッセイスト、そして劇団「天井桟敷」主宰でもある。昨今で言うところの「マルチに活躍する」人間だった。今回の番組で最も印象的だったのは「一寸法師が2cmでも10mでもいいじゃないか」という言葉である。つまり、あの御伽噺は一寸法師が打ち出の小槌で、普通の大きさになって終わる。それは非日常に対する否定であり、人間の進化を妨げるというのだ。以前にも触れた映画「フリークス」に通じるものがある(一寸法師も言うなれば一種の畸形児だ)。
 ところで、美輪明宏寺山修司といえば言うまでもなく挙げられるのは戯曲「毛皮のマリー」である。もはや美輪のライフワーク(初演当時は『丸山明宏』)であり、何度もリメイクが施され、ついに最近ではミッチーとの共演を果たした。女装趣味の男娼マリーの一日を描く物語はまさに非日常である。むしろ日常性を徹底的に排しているとさえ感じられる。
 では、非日常はどのような効能があるのか。それは対応力の成長である。時々非日常に触れることによって、自身の価値観を柔軟にしておき、さまざまな問題に直面した際の臨機応変さを鍛えることだ。「差別をしてはいけない」という意識以前にある「差別する理由がどこにあるのか」と問う姿勢である。けばけばしい化粧と衣装に身を包み、世間から「オバケ」と称されつつ街を闊歩した丸山明宏は、人々の差別的意識を浮き彫りにさせる画期的な装置のひとつだった。異なるものを排除する、見えない「打ち出の小槌」を誰もが持ちうるという事実をああして暴露させたのである。だが、それもサイケデリック・ムーヴメントとして流行に飲み込まれてしまった。日本人の柔軟な模倣性は、時として運動の裏にある意志を希薄にし、活動そのものへ重点を置いてしまう。俗に言う「儀礼化」というやつだ。そして、意志の介在しない運動はその希薄さゆえに急速に消滅する。「Global Standard」という言葉が叫ばれて久しい今日この頃、何が「Standard」であり、それを「Standard」たらしめているものは何かということを改めて考え直したい。