「オーヴァードライヴ」の巻

 映画の話。妹がなぜか数年前の映画「黄泉がえり」を観たらしく、ひどく感動したそうだ。そもそも彼女は恋愛映画というジャンルが好きで我が家にいたころも邦洋問わずに観ていた。一方のわたしはといえば専ら娯楽を求めており、恋愛映画などはほとんど琴線に触れない。が、「黄泉がえり」に関してはいささか思うところがあるのだ。それは監督の塩田明彦氏である。彼の劇場映画監督としてのデビュー作をフェイバリットとしている。タイトルを「月光の囁き」という映画だ。
 原作は喜国雅彦による同名の漫画である。正直、これを映画にしてしまうのは公序良俗に反する面が無きにしも非ずであり、しかも地上波で放映されたときは他人事ながら妙に心配したものだ(R15指定になっていたような記憶もある)。喜国氏自身が「漫画で谷崎潤一郎をやりたかった」というだけあってフィジカルにもメンタルにも嘔吐しそうなくらいに際どく描かれている。一言で表せば「愛憎」の世界だろうか。愛にしろ憎にしろ、そして例え感情でなくとも極めればどうしても美しく映える。ということは、「人間」の本質である感情の極致とは美の頂点でもあるわけだ。ゆえに、公序良俗に反する。この矛盾を、塩田監督はきっちりトレイスしていた。もちろん俳優の演技が素晴らしい(歪みっぷりが表情や仕種に満遍なく浮き出ていた)というのもあるのだろうが、原作の感触をスクリーンへ昇華させた塩田氏の手腕は目を見張るものがある。
 「月光の囁き」にはもうひとつ、陰鬱というキーワードがある。恋における大きな煩悶がそのままの濃度で行動へと移る瞬間に垣間見える漆黒である。本来はさまざまの想いがそれぞれのカラーをもって現存していたはずなのに、打ち明けられることなく内側で煮詰められて変色した恋の黒さだ。こうした恋によるアクションはもちろん「告白」だの「お付き合い」だのといった軽々しいものにはならない。詳しくは映画、あるいは漫画に触れていただきたいが、ここにあるのは極度の恋に裏打ちされた行動である。それは突き詰めることによって、当人が恋であったことさえも忘れてしまうような性質さえ持っている。良識的に表現すれば愛に最も近い恋である。「恋愛」なる熟語は、反意語同士の組み合わせだとわたしは定義しているのだが、「月光の囁き」はそれを突き崩すに充分な力を持っていた。皆様も機会があれば是非。