「開門」の巻

 Vindaloo(以下『ヴィンダルー』)という料理を知った。個人的にはかなり衝撃的だった。西インドはゴア地方に発するらしいカレーの一種で、とんでもなく辛いというのでわたしはまず食べられない。酢を用いている(本場ではココナッツビネガーらしい)ことから独特の香りと酸味を醸し、それが好きで人は食べるのだそうだ。だが、わたしが驚いたのはその材料である。豚肉を使うというのだ。鶏肉やマトンを用いる場合もあるにはあるそうだが、基本的には豚肉らしい。インドといえばイスラム教、もしくはヒンドゥー教が主であり、穢れの象徴である豚は忌避され、もちろん食されることもない。理由は、ゴアという地の特徴にある。かつて、ここはポルトガル領インドの首府だった。そもそも港町であったために外来文化は簡単に持ち込まれ、17世紀初めまではキリスト教の大聖堂も建っていた。ゆえに豚肉を食べる習慣も生まれたのだろう。また、ダンスミュージック・フリークの視点からすればゴアといえばゴアトランスが思い出される。90年代前半に隆盛した高速ブレイクビーツと、サイケデリックな民俗的メロディ(まれに『詠唱』が入ることも)が織り成す独特な味は現在でも一部で人気がある。
 「マーフィーの法則」を編纂したアーサー・ブロック氏はその前書きにて以下のように述べている。

> 宇宙は、その誕生以来40億年にもわたって、
> グツグツと煮立っているシチュー鍋のようなものである。
> はっきりしているのは、やがて、われわれは人参も玉葱も
> 区別できなくなってしまうということだ。

 上の「宇宙」という単語を「世界」と代えても文は通るだろう。昨今はさまざまにものが混濁し、区別が難しくなっている。角を一つ間違えると道に迷うのはどこもかしこも似たような風景だからではないか。かといって、特徴がありすぎても辟易する。個人的な意見だが、私はカレーにしろシチューにしろ具が残っているほうが好ましい。それは煮込まれているのも非常に結構なことだが、具そのものの味も楽しみたいからである。ヴィンダルーにはそれがある。キューバの町並みをテレビや本で見たことがあるが、ヨーロッパ風の建築と照りつける太陽が生む「融合」は珍妙ではあったもの、実に興味を惹かれる光景だ。「世界」というシチュー鍋は現在でも火にかけられ、ほとんど具が溶け出している状態である。伝達技術の発達はもちろん、卑近な例を挙げればレコードのヒットチャート、少子化による市町村や学校の統廃合、などなど。殊に日本は他を受けることへの抵抗が少ない。他を受容し自身を高めていくのは素晴らしいことだが、自己存在証明だけは溶け出させてはいけない。

 今回は以上です。