「Platinum-Tongue」の巻

 開国後の日本における躍進の陰にはその圧倒的な語学力があった。それはもちろん「解体新書」に象徴されるように、日本人の特技といっても過言ではない。翻訳という作業は手っ取り早く外来文化を吸収するのに非常に役に立つ。この吸収のレヴェルは言うまでもなく一部の技術者のみならず、専門外である一般の人々までをカヴァーする水準である。なぜなら、文化を取り入れる際の水準はどれだけ汎用性が高いか、言い換えればどれだけ一般化されているかにかかっているかだからだ。
 とはいえ、翻訳には当然フィルタリングという弊害がもれなく付属してくる。稲富栄次郎氏はコメニウス『大教授学』を翻訳する際にこのことを大いに気にかけていた。というのも、既に原本は回収不可能で、唯一残されたドイツ語訳が辛うじて残っている状態での作業だったからだ。つまり、二重のフィルターを通した「ことば」の純度の低さを懸念していたわけであり、頷ける話である。文学や音楽など、文章に技巧を用いる対象においてはなおさらである。卑近な例で恐縮だが、007シリーズを本格的に楽しもうとするならば決して吹替版で観てはならない。主人公のボンドは英国の諜報機関であるから当然だが、周囲の人物でさえ言葉遊びを忘れないからだ。「007は二度死ぬ」に登場する大里社長でさえ、その例外ではない。そして、日本語字幕にはやはり反映されていない。訳者があまりに愚鈍なのか、それとも泣く泣く諦めたのかは定かではないが(後者であることを期待したい)。
 しかし、外来語とカタカナ語を混同してはいけない。昨今はことにここにおいて問題が発生している。例えばここ数年で一般化されつつある「インフォームド・コンセント」について説明できる人がどれだけ居ることだろう。この「何となく騙される」ことの危険性は敢えて示すまでもない。名称を知っていればすべてを把握しているかのような錯覚に陥り易いのもまた人の常である。繰り返すが、語学力とは畢竟翻訳の力である。母語に訳せて初めてその意味を持つ。訳したものを広める必要はあるかもしれないが、義務はない。言葉とは往々にして自身さえわかっていればよいのだ。だが、自身がわかっていないことに気付かないという風潮が流行しており、それをわたしは懸念している。

 今回は以上です。