「『解釈』に対する解釈」の巻

 音楽は音楽として、聴覚のみで感じればそれで何も問題はない。ブルースロックにおける悲哀とか、「海ゆかば」のイメージの変遷とか、そういった背景にわざわざ触れる必要はない。知っていて損はないだろうけれども、おそらく音楽を生業としないかぎり(或いは、していたとしても)その裏にあるものを知ろうとすることに、わたしは意味を見出せないのだ。音楽に限らず、絵画や文学にしても同様である。趣味の範囲であれば、作品をぼんやりと鑑賞するだけでよい。むしろ、それでこそ鑑賞であって、背景や意図を探るのは研究である。これは別に「無知が新たな解釈を生む」とかいう不届きな発想に迎合するようなスタンスではない。無知はやはり無知であり唾棄すべき現象のひとつである。
 が、上に述べた「研究」の示す範囲はとても広くとっているつもりだ。それはその分野の研究で金を稼ぐセンセイからウェブスペースに文章を書く俗物までを包容する。そして、これは言い換えれば作品にふれたほとんどすべての人々である。なぜなら、鑑賞によってインスパイアされた表現を示すのはもはや人間の本能的な作用だからだ。それは批評文であったり、また別の作品であったり、あるいは引用(この行動は対象に強烈に影響されていることが色濃く窺えるアクションのひとつだ)であったり。レコードを聴くだけならば何も考えずに耳を傾ければよい。しかし、その感想を述べる際には聴覚のみで対応するわけにはいかない。小説を読む際にはそのストーリーに没頭すべきだ。けれども、批評を行うには別の小説や先に書かれた批評文に触れなければならない。必然性を考え、言葉を選び、表現する必要と義務とがある。それはある種の責任というか、「触発された上での行動」を起こす最低基準の資格である。そこである人は言う、「何を考えても自由じゃないか」と。脳内で完結させる分には自由で結構だが、表現してしまうからには不自由を蒙る義務、もしくは宿命を負うべきだろう。表現とは別の視点からしてみれば、自身の価値観を植え付けることであり甚だ迷惑な行為であるからだ。その迷惑を顧みなければならない。当然ではあるが、わたしにはその覚悟がある。