「価値ある理由」の巻

 雑誌「ユリイカ」2006年6月号の特集「任天堂/Nintendo〜遊びの哲学」を読む。わたしの世代はがっちり「nintendo」世代である。思えば、コンシューマ機の変遷を身をもって体験したような印象だ。スーパーファミコンゲームボーイで年齢一桁時代が終わり、小学校高学年の時分には32ビット機が隆盛した。中学に上がるとゲームボーイポケットワンダースワン(あとネオジオポケット・笑)といったハンディ機が売れ出し、PS2が高校時代に登場し、ほぼ同時にセガがソフト製作に完全にシフトすることを宣言した。そして今、再びハンディ機の時代がやってきている。けれども、この中で決して潰えることのなかった「機材」がある。それは十字キーだ。現在では、このキーを用いない家庭用ゲーム機を探すほうが難しいだろう(ATARI社のパワーグローブくらいか?)。
 十字キーの生みの親であり、任天堂ビデオゲームに携わり続けた横井軍平氏は、やはりこの特集にもたびたびその名を挙げられていた。氏が逝去されてからそろそろ10年になるわけだが、十字キーを初め、未だにその「職歴」はビデオゲームの中に息づいている。nintendo DSPSPなどの携帯ゲーム機の元祖である「ゲーム&ウォッチ」も氏が携わった商品のひとつだ。氏は常に、グラフィックや音楽、ゲームシナリオなどよりもアイデアをその軸に据えていた。前述のワンダースワンと同時発売されたソフト「GUNPEI」は遺作に当たり、「つなげて消す」という単純なものだったが、やはり面白く、わたしがワンダースワンを買いかけた理由のひとつでもある。こうした、「何かの合間にふっと遊べる」というゲームが任天堂のスタンスではないか。そもそもは花札の製作を主に行なっていた会社である。仕事の休憩時間で遊べるだけの気軽さ、これは花札からnintendo DSまで地続きになっているのだ。
 ここへ来て、わたしは実に中学生以来のゲーム機購入を考えている。その理由は、「GUNPEI」同様、ひとつのソフトに起因する、それは「マザー3」だ。
 わたしはRPGというものが苦手で、何より長時間プレイするのが鬱陶しいと考えている。ひとつひとつ課題をクリアするという「行」にも似た遊び方に疑問を覚えてもいた。ではなぜ、前作に当たる「マザー2」に惚れ込んでいるのか。それはそこにある自由度の広さである。無駄の多さとも言えよう。確かに本筋は存在している。が、その倍以上はあろうかという、しかもシナリオ制覇に全く関係のないイヴェントが「マザー2」には存在していた。それはどうでもいいにもかかわらず、しっかりと物語が存在していたり(例・『ドコドコ砂漠』のくろゴマとしろゴマ)、本線シナリオの進み具合によってゲーム内の人物(しかも通行人程度のキャラクターだ)の台詞が変化したりと枚挙に暇がない。マッハピザの最後を見届け、くちばし岬の別荘を買い、魔境で自転車に乗ってベルが鳴らないことを確認した現在でも、まだ何かあるのではないか、という気がしてならないのである。ちなみに「3」の開発報告は「2」発売と同時に行われていた(と表現しても差し支えない)。しかし、発売まで12年もの歳月がかかったのは、やはりこのサブイヴェントのせいではないか、と踏んでおり、当然それに期待している自分がいる。「メインとは関係ないのに楽しい」という唯一無二のゲームである。
 気軽さと無駄、これがわたしのゲーム観の神髄であるようだ。