「誤解とその代償」の巻

 普遍的な逆説ではあるが、研究したりその道に打ち込んだりしている者は遅かれ早かれその対象を否定するかのような行動に出ることになる。あくまでそれは、別の視点を組み入れることにより対象の発展を深化させるという目的で行われるのだが、その志向がきわめて一般的な、言い換えれば専門外の人間でも納得(したかのような錯覚に陥ることが)できる場合には曲解されることがままある。曰く転向、曰く逸脱。そして時には表面的な「対象の否定」そのものがメインだと勘違いされてしまい、しかもそれが「世の中の主流」となってしまう危険さえあるのだ。今日における顕著な例はロラン・バルトによるテクスト論だろう。
 テクスト論とは、単純に言えば読書という行為をエネルギー保存の法則に沿わせたものである。文学作品(エクリチュール)は、読者によってその「意味」あるいは「内容」を「読み取られる」。つまり、文学作品にあった「内容」が読者へ移動してしまうのだ。かくして作品に残されたものは「インクの痕」「紙の束」という物質にすぎない。当然だが、吸い取られた「内容」は読者の主観によって形をゆがめられるので、本来の居場所であった文学作品に帰還することはない。つまり、文学作品の価値である「内容」は読者によって変貌し、またその主体が不特定多数であるがゆえに点在するとなる。こうしたアクションは「爆散」と目され、「還元不可能な複数性」と呼称される。つまり、読書のあとには歪んだ印象だけがいくつも残り、しかもどれひとつとして「正解」ではない(=読みの無秩序性・Anarchism)、という結果になる。
 この論を受け、最高学府における文学の撤廃が行われたのはつい最近である。かつての東京都立大学が併合される際にもやはり「文学は不要」とされ、人文学部が姿を消した。要するに日本の首都は文学の必要性を否定したのである。この行動が納得できないわけではない。正解のない学問は非科学的であり、不安定だ。そんなものに価値があるのかと訊かれれば「正解」は明確だろう。ここにおいてロラン・バルトを責めるのはお門違いだし、何より彼の理論には隙が無い。「保存の法則」は実に科学的な論理であり、かつ誰にでも分かるようなものだからだ。これにトレイスさせれば不可思議な配置でもしないかぎり論はきわめて強固なものとなろう。つまり反駁しようがないのである。けれども、このアクションゆえに文学の軽薄化、活字離れ、ひいては学力の低下が引き起こされたのは紛れもない事実である。
 しかし、曹丕の言葉を借りるまでもなく文学は偉大な存在であり、教育機関がその必要性を否定するなど狂気の沙汰としか考えられない。しかもバルトは批評家である。いわば「読み」を飯の種としている人間だ。そのような人がなぜ文学の不要を説くような理論を打ち立てたのか。賢明なる皆さまはお気づきのことと思われるが、これは単なる誤謬である。文学を不要と看做した人々は、つまりバルトのテクスト論を理解していなかったのだ。いや、論そのものは確かに測りえていたかもしれないが、その意図を看破できなかったに違いない。ではその意図とはどのようなものだったのか。
 結構な容量になったので、この問いの答えはまた次の機会に。

 今回は以上です。