「猶予と絶壁」の巻

 不思議なことに、文科系の大学生というのはサラリーマンになることに抵抗があるらしい。汗水垂らして労働するよりも自らの研究に没頭することに価値を置くがゆえだ。果たしてそうだろうか。生物のステータスとして普遍的に、食糧の確保に対する能力と特殊技能の高さがある。例えばチーターにおいては俊足と牙がそれだ。この考えを人間にスライドさせてみると、自給自足の生活を送らないかぎりは、金を稼ぐことがそのステータスと等号で結ばれる。この論理において、各々に差こそあれ確実に収入を得ることが出来るサラリーマンと状況次第では一線の価値もない行動を続ける研究者とではどちらが優れているだろうか。「この研究にはお金以上の価値がある」という文句はもはや寝言でしかないのは周知の事実である。
 教育機関とは、恙無く成績を修めていれば卒業できるものではない。これは別に内申点とか友達付き合いとかを言っているのではなく、要するに卒業できるまでの経済的バックアップが不可欠だということである。そして、教育機関に属する者は往々にして、この経済的バックアップが安泰に行われるだろうことを疑わない。自らがいつか経済的危機的状況に陥り、その機関を去らねばならなくなるなどとは考えもしないのである。殊にサラリーマンになることを念頭に置かない文科系学生諸君はその傾向が強い。同時に、こうした思い込みは「可能性」を盲目的に信じるがゆえに自身の研究に対して過剰に価値を置き、諦めの悪さを育てる。何かに打ち込むのは結構なことだが、それによって稼ぐことが出来ず、かつ、経済的に圧迫されるのであれば、それは投げ捨てるべきだろう。諦めは、最も単純で、しかし最も汎用性の高い処世術である。
 わたしにはここにおいて、学業を疎かにせよと言っているのではない。そうではなくて、教育を受けるすべての者は、その置かれている環境が次の瞬間には失われる可能性があるという事実を肝に銘じておくべきだということである。