「結論」の巻

 要するに「24時間テレビ」はテレヴィジョンに映る他人の努力を鑑賞するだけの時間と体力(換言すれば『暇』)を持つ人を対象にする、つまり、他人を構うだけの余裕がある人に価値を置く企画であり、自身で精一杯の人、つまり「24時間テレビ」を見る暇がない人には何の用もない番組である。結果として後者、すなわち他人を省みることが出来ない人間はテレビのもたらす「大多数」という正義によって「心のない人」と捉えられ蔑まれる。小学生などの単純な理論しか解せない人々が熱心に入れあげるのもつまりはこうした「善悪」を認識する明確な指標が「24時間テレビ」を見たか否か、あるいは参加したか否かによってきわめて容易に与えられ、しかもその判断基準は普遍的かつ盲目的に正当であるからだ。「そんなものを見ている暇はない」という台詞が「心のない人」的印象を十二分にもたらすことも含めて、自らを省みることしか(もしくは『さえ』)出来ない人間は「大多数」の視聴者によって否定される。畢竟、正義は常に他人を心配する物理的、心理的、経済的余裕のあるブルジョアジーにあり、手持ちの仕事で息を切らせる低所得者層は「冷血」な人間というレッテルを貼られるわけである。「憐憫」を受けるのは身体に障害を持つ弱者ではない。身体に障害を持ちながら、その家庭は裕福である人間だ。人々は足のない富豪に同情を寄せるが、足のない浮浪者はただ蔑むだけなのだ。それは彼が裕福であるという妬みとなるべき要素を自身のなかで身体的障害でもって相殺し納得しているからである。けれども浮浪者の場合は、浮浪者である時点ですでに優越を得ることは出来ているのであるから、マイナスのポイントは必要ない。ここに身体的障害というネガなイメージを付属させても評価は上がらない。よってひたすら軽蔑される対象となるのである。話がやや逸れたが、要するに感情や心などというものは畢竟その経済的状況によって変化するきわめて単純かつ理知的な要素なのである。