「Turn Turn」の巻

 晴れの笑いと褻の笑いということについて、テレビのお笑い番組をモティーフに短い演説を行なった。話す前に「それではお話させていただきます」と言ったのに無反応だったのはいいとして、あまり伝わっていなかったようなので悔し紛れにここに書くことにする。
 晴れとは非日常であり、祭りである。対して褻とは日常を指す。狂言、落語から80年代の漫才ブームなどを巡って現在のお笑いブームを考察し、そこには明確な晴れと褻の異なりがあるとわたしは考えた。そして、その転換点がどこかというと「8時だヨ!全員集合」と「オレたちひょうきん族」にあると定義したのである。狂言や落語は非日常だということに異論はあるまい。80年代の漫才も非日常に属する。なぜか。それは当時の漫才師が「衣装」を着ていたからである。同じデザインのスーツであったり、馬鹿でかい蝶ネクタイだったりTシャツにしても揃いのものだったりという塩梅だ。けれども昨今の漫才師を見るとカジュアルな様式と同じような衣装を着ているように思う。これが晴れと褻の別の第一義である。「全員集合」には二つの晴れ的要素があった。ひとつはすべてコントであったことだ。畢竟演劇であり事実的印象が見当たらない。もうひとつは(これが最大なのだが)舞台の上で行なっていたという点である。この段差によって観客と縁者の間には明確な非日常と日常との線引きが存在していた。
 対して「ひょうきん族」だが、確かに晴れの笑いはあった。タケちゃんマンブラックデビルといった「キャラクター」による笑いがそれである。けれども褻の笑いが生まれつつあったのもこの番組なのだ。つまり、芸人の日常を笑いへ応用するという手法で「ザンゲのコーナー」などがその代表だろう。全体にしても脚本というよりは芸人自身の反応で笑わせる、というタイプのほうが多かったように感じる。要するに褻の笑いとは日常の戯画化である。かくして晴れの笑いはだんだんと薄れ、なぜか芸人の日常をテレビに映すことがあたかも主流であるかのような風潮さえ現在では漂っている。
 では、なぜ褻の笑い、つまり日常の戯画がウケているのか。それは需要があるからだ。ここで戯画に対する必要性を鑑みなければならない。なぜパロディ化するのか。それは、「そうでもしないと受け入れることが出来ない」からである。パブロ・ピカソの「ゲルニカ」などはその骨頂だろう。天然色で彩り写実的に描くとなったら、きっとそれは見るに耐えない代物だったに違いない。そして、ピカソ自身もああでもしなければ描くことが出来なかったのではないか。ストレートに伝えるにはあまりに残酷でグロテスクな事実を、しかし、どうしても伝えねばならないとき、人はそれを戯画化して表すのだ。つまり、褻の笑いの蔓延は日常が残酷であることの証左に他ならない。
 さて、本日をもってNHK総合サラリーマンNEO」が終了した。これは紛れもない、随分と直球な日常の戯画である。わたしは、この番組は褻の笑いの最終形ではないかと考えている。言うなればサラリーマンの住む社会がパロディにでもしなければ見ることが出来ない、という事実の体現である。そして、それがいま終わってしまった。これから日本の「笑い」がどこへ向かうのか、楽しみでもあり憂鬱でもある。

 今回は以上です。