「分析、あるいはベルクソンへの接近と畏敬」の巻

 チュートリアルが今年のM-1グランプリで見せた漫才は分析に値すると考え、漫才を愛する人間のひとりとしてここで行なってみたいと思う。彼らが圧倒的であったのは言うまでもない事実だが、ではなぜ圧倒的だったのか。圧倒だとか超然だとかいうものは須らくその独創性に拠る。独創性とは字の如く他の追随を許さない単一の存在であり、ゆえにすべてを超越する。単純にいえば今回、彼らが披露した漫才は何者にも似ていないだったがゆえに素晴らしかったということだ。
 そのオリジナリティはどこに由来するのかといえばその構図である。ブログの方にも書いたが「ある世界を別の次元で把握する」という構図だ。これは勘違いなどという生易しいレヴェルではない。ひとつの話題をまったく異なった視点でとらえているということの持つギャップが生む笑いである。別にこの形式は新しいものではなく、つまり徳井は痩せ馬に跨り風車に突っ込んだドン・キホーテの姿そのものなのだ。福田というサンチョ・パンサが横に居ることでその痛快さは威力を増していく。構図そのものは決して珍しいものではないが、その手法を漫才へ取り込んだという方法論が新しく独創的なのだ。
 もうひとつ、彼らの漫才が笑いに繋がっているポイントがある。それは会話の真っ当さだ。前述のドン・キホーテは騎士物語に熱を出して妄想癖に陥ったが、チュートリアルのそれは実はそこまで奇抜ではない。決勝ラウンド、および最終決戦での徳井の言動をそれぞれ「恋人」の話題へ置き換えてみれば、そこそこ普通の反応(後者はややドラマ仕立てだが)であることが理解できるだろう。この「こっちの話題だったら別にあり得る反応かもしれない」という「普通さ」が、いわゆる「あるある」の笑いとリンクして、ドン・キホーテ的笑いとの化学反応を起こすわけだ。言い換えれば、名詞を除けば会話としてきちんと成立しているのである。漫才は何より会話として成立していなければならず、このレヴェルを満たしたうえで、いかにうねりを表現できるかが笑いの核だとわたしは考えている。真っ当な会話と次元の異なりが並立するという漫才。これを空前絶後と言わずして何と言おう。

 今回は以上です。