「学問的意義とその弊害」の巻

 わかりきったことではあるが、人間の歴史とは取りも直さず「勝者の歴史」であって、歴史に名を残すのはすべからく英雄の称号を得た勝者連中である。歴史に名を残した時点で勝者、という逆定理もまた然り。この勝者の定義は実際にはどうだったか、という事実関係は必ずしも当てはまらない。たとえば服薬自殺を行なった芥川は「勝者」ではないけれども、「英雄」ではある。つまり正義性である。このニュアンスだ。
 この事実もわかりきったことだが、すべての学問には娯楽性が介在する。文科学はその最たるジャンルであり、たとえば芸術学はほとんど学問と趣向が同じベクトル上にあるものと考えて差し支えない。文学を専攻する人間としても、この学科の娯楽性は否定できない。さて、先から話題にしている歴史学におけるそれは何かというと、歴史に名を残したいわゆる「偉人」を取り扱うことに発せられる。アスリートが好成績をたたき出した瞬間を見たときに起こるあの興奮である。それは彼が自身を「偉人」に重ね合わせていることに起因し、畢竟妄想や勘違いの類である。誰でも没頭できるこの快楽は非常に中毒性が高く、またあまりに甘美なためにその弊害も大きい。歴史はそれ自体がすでに正義性をある程度持っていることもある。「温故知新」などという前世紀の考えが未だに世間の常識として定着しているためだろう。
 歴史学の弊害で最も大きなものは自身を疑わなくなる、というものだ。常に正義に触れているせいで、確信犯的思考が常態となるわけである。相対的、アナロジー的な考えをしなくなると言い換えることも出来る。歴史にはファシズムという人間の快楽の代表格ともいえるアクションもふんだんに盛り込まれている。とりあえず「悪いもの」と現段階では定義されているものの、それがいかに甘美であるかは言うまでもなく、歴史を学ぶ人間は「善悪を超越した」考えを持っていることが大概なので、思考方向が染まりやすい。要するに絶対性主義なのである。この悩ましき真実を打開するには彼らが自身および歴史学を相対的に見ることなのだが、望みはきわめて薄い。なぜなら、彼らには相対的視座が備わりづらいからである。