「聞くことの重要性」の巻

 ちょっと目を離した隙にミドリカワ書房がアルバムをリリースしていたので注文した。PV付き限定版しかなかったところを見ると、多くのファンが緑川伸一の「うた」と「音」を重要視していることがわかる。わたしは何度も書いているように歌詞が書けない人間で、歌以外は三年前に出来上がっているという曲さえあるくらいだ。その理由のひとつに緑川伸一というリリシストの存在がある。わたしは以前ライヴで、彼の「私には星が見える」という曲をカヴァーしたくらいに彼をリスペクトしている人間である。
 物語は現実性があればあるほど善しとされる、という定理がある。空想の世界が原材料であるはずの「物語」なのに、あまりに突飛すぎると「話に現実性がない」などという的外れともとれる意見を食らう。逆説的な、あまりに逆説的な構図である。おそらく物語の醍醐味のひとつに感情移入があり、それを潤滑にするために現実性は機能するのだろう。
 さて、これも逆説なのだが、甘美な刺激も限度を超えて与えられると言いようもない不快感や嘔吐感に見舞われる。たとえば一日三食杏仁豆腐という日が何ヶ月と続けば誰だって辟易し杏仁豆腐に生理的拒否を起こすことだろう。早い話が、緑川伸一の書いた歌詞は、その行き過ぎた現実性(それこそ井戸端会議に上りそうな、実に卑近な話題)ゆえにその価値を成立させているのだ。彼のプロミュージシャン人生におけるすべての契機となった「それぞれに真実がある」では父親が、幼い娘に向かって離婚とその理由となった自らの不倫とを語る、という内容である(愛憎は恋愛より現実的であることの暗示か)。今回リリースされたアルバム「みんなのうた2」ではその内容のグロテスクさゆえにインストでしか発表されなかった「母さん」という曲が歌入りで収録されているという。以前インストでリリースされたときに彼が憤慨していたのを覚えている。
 このように歌詞が残酷であれば普通はポップカルチャーにはなり得ない。少なくともオリコンのインディーズチャートで週間1位をとることはないだろう。なぜ彼がポップなのか、それはもうひとつの要素「音」に理由がある。アコースティックギターを定礎に編成された彼の音楽はみなどれも耳に心地よく響く。この旋律が、苦い薬を包む糖衣さながらの役目を果たす。あるいは痛みが癒えていくときのえもいわれぬ温かみと言おうか。いずれも彼の音楽の魅力をなす要素である。わたしには、歌詞のほうが響くというだけだ。「言葉なんて上辺だけだ」などと嘯いている人間には彼の歌を聴くことを勧める。確かに言葉は上辺だけだが、その及ぼす影響は骨の髄まで透徹するという事実を目の当たりにするだろう。