「構造改革」の巻

 http://www.youtube.com/watch?v=787dZMd78TU
 あべこうじR-1ぐらんぷり2006でのネタを観る。この凄さが分かる人がどれだけいるのか気になるが、僅差で第二位だった(因みに優勝は博多華丸)ところを見ると審査員の皆様はさすが芸人であると思わざるを得ない。野暮ったい話だが説明しよう。これは「漫談」という話芸の一ジャンルを構造という次元で変えてしまった作品である。大抵「芸」と呼ばれるものは大方の定石的システムがあってそのうえで自分なりの工夫を凝らすのだが、あべこうじのこの漫談は「システム」の部分にまで介入してアレンジを加えてしまったのだ。ネタが始まったあたりではありふれた漫談でありジャブを加えつつ本題に入る。一段落して次の話題に移る。さらに次のステップへ戻ると思いきや最初の話題へ戻る。再び別の話題へ移るといつの間にか最初の話題へ全体が組み込まれている。クラインの壺のような構造を持つ漫談であり、他の追随を許さない内容になっているのだ。
 芸術というのは九分九厘ヴァージョンアップしか見込めないジャンルの文化だ(あるいは文化という存在全体がそうかもしれない)。ゆえに、その中において破壊や前衛を指向することが出来れば確実に変革の一端を担うことになる。たとえばそれは切れ込みを入れることによって、キャンバスを絵を描く「平面」ではなく「立体」としてとらえたルチオ・フォンタナであり、無調音楽や拓いたジョン・ケージマトリックスを用いて作曲したピエール・ブーレーズである。
 構造の次元において変化をもたらした場合の最大のメリットはそこからさらにヴァージョンアップが見込めるという点である。もちろんこれは当然であり、また冗談でもある。ヒップホップからドラムンベースが生まれ、現在はドリルンベースやリキッドファンクと呼ばれる類型(なのか?)が後続しているがいよいよこのあたりも行き詰まりを覚えているような気がしてならない。ことに笑いに関する手段は小手先だけの変容では淘汰の対象となりやすいものでもある。次のステップを提示してシーンに登場し場を混乱させること、それは宇宙の法則に逆らうことであり、実に人間らしい発想で、ゆえに文化と呼称される。結局はこれらの繰り返しが文化全体の様相を為しており、そのサンプルとしてあべこうじの漫談がある、とするのは些か強引だろうか?

 今回は以上です。