「ethno」の巻

 金曜ロードショーパッチギ!」を途中から観る。日本人ターンテーブリストとして初めて世界の頂点に立ったdj KENTAROFUJI ROCK 2007に参戦するらしい)は「音楽に国境はない」と語るが、音楽ほど民族性に拘束された芸術表現もない。これはモードジャズ理論とも連関するのだが、各々の民族には使用されるべき音階というのがあり、そのうえで音楽を構成する。たとえば沖縄の音階などは一オクターブ分を鍵盤で聴くだけで「沖縄っぽさ」を実感できるはずだ。他にもキリスト教がなければ第九も誕生しなかったろうし、天皇制なくして「海ゆかば」もあり得ない、などなど。この論を立証する事象は枚挙に暇がない。
 けれども裏を返せば、音楽に触れることは民族性の存在を想起させる契機となる。この事実が最も良識的に作用するのが日本人であることは言うまでもない。海という物理的隔絶があればこその日本人における「民族」というカテゴリに対する無関心さは、物理的隔絶が意味を為さなくなった現代においての課題であるのは周知の事実だろう。ここにおいて映画のなかで主人公の青年がヒロインに「イムジン河」の「誤訳」を伝えるシーンがいかに映えているかがわかる。この「誤訳」が民族性の現出であり、ここから全体の主旋律が形成されているように感じた。
 かつて東西ドイツは人工の壁で仕切られた。その壁に近寄れば武力制裁を加えられるため、人々はいつの間にか壁の存在を受け入れた。この「受け入れ」は「無視」と同義であり、壁があること自体を忘れてしまうくらいに壁を生活になじませようとした。しかし。壁は結局人々によって打ち破られた。彼らは、壁を意識してしまったのだ。ゆえにその存在を知覚し、向き合い、その存在理由と作用を考え、破壊すべきだという結論に達して行動を起こしたのである。まずは壁を壁として認識すること。そこからすべてが始まるのだ。
 ところでオダギリジョーが演じていた「さかざきさん」は坂崎幸之助をイメージしていたのだろうか。