「techno」の巻

 これを書いているのが午前7時40分なので本番12時間前ということになる。以前に立川で出演したこともあるがあれは呼ばれて行ったものだしコピーバンドだったしということで完全自分主導で、かつオリジナルということで緊張はかなり高まっている。世間は言わずもがなのバンドブーム(1980年代のそれとはまた異なっているが)であり、ギターを携えずしかも歌わないというわたしの形態は明らかに異端だろう。目下は時間が余ったらケンドーコバヤシの痴漢漫談でもコピーして披露してやるって!ぐらいの意気込みだ。
 ところで前回、音楽には民族性が表出するということを書いた。言い換えればこれは民族性のある音楽はありふれた存在で、たとえば東京の人間が沖縄民謡のレコードを聴いて「情緒がある」などと感じるのは実にありふれた光景だが、現地沖縄の人が聞いても大きな感慨を抱くことはないだろう。なぜなら彼らにとっては日常的に触れる音階やリズムで、箸を上げ下ろしするのと変わらない所作だからだ。人はここに民族性と音楽との癒着と、音楽が引き起こす民族間におけるギャップの可視性を感じ取るはずだ。
 ではこの現象から離れるにはどうすればいいのか。民族性を取り払うにはどうすればいいのか。まず楽器をほぼ世界的に存在するものに変えるのだ。ゆえに先進的な機材だ(使用素材の発展はその利便性や機能の充実から自動的に広まり、世界を平均化させる)。さらに、ここが大事なのだが人間がじかに楽器から音を出してはいけない。手癖を含む人体の生み出すリズムは民族性と合致するからである。ここまで書けば音楽的エスペラントがいわゆる電子音楽に繋がることがわかるだろう。昨日テレビでHuman Audio Spongeのライヴを少しだけ見たが、彼らがかつてから現代に至るまで電子音楽に身を置いているのはこうした世界共通語的な性格を持ったジャンルであることを知っていたからではないか。ゆえにいきなりアメリカに前座として登場したにも関わらず、アンコールまで要求されるほど受け入れられたのだ(が、そこで味わったショックが無いではないがそれはまた別の機会に)。わたしも彼らに倣うというわけではない(というものでもない)が、今日のライヴでは電子音楽で初対面の人々にアプローチし、言葉では伝えきれない部分の何かを少しでも手渡せればいいと思う。

 今回は以上です。