「反省」の巻

 わたしは前回書いたように失恋というものを存分に味わったわけだが、思い返すと恋に浸かっていた期間のわたしの行動は精神を患っている人間のそれとほとんど代わりがなかったように感じる。この恋の終わりは第三者によって引き離されるという決して後味の良いものではなかったが、実際にああでもしてもらわないと本当に収監されかねない趣きさえあった(に違いない。だから彼もあれだけの行動に出たのだと思う)。恋は欲求であり、人間の欲求はそれが人道的に外れていようと適っていようと留まることを知らないという根本的性質を持ち合わせている。ということは恋もまた天井知らずに増殖する。この事実を把握できていなかったのだ。わたしは幸か不幸かドラッグに手を出したり中毒になったりという経験がないのだけれども、恋の加速度的な段階はドラッグのそれに近いのではないかとさえ考えられた。今でこそ冷静(だという自覚はある)になって再考できるけれども所謂「おかしくなってしまう」とはあのときのわたしに他ならない。ましてやわたしには免疫がなかったのだ。
 恋とは性欲の詩的表現であるがゆえに生理的欲求であり、たとえば空腹とか居眠りとかに近い反応で、人間自身の意識を凌駕して行われる。だから高まれば社会的な地位であろうが経済的な余裕であろうが簡単に擲つことができるはずなのだ。それができないのならばきっと気の迷い程度の軽い感情に違いない。九分九厘の人間による予想以上に恋は凄絶で奇妙で恐ろしいものであるらしいことがわたしにはこのたび理解できた次第である。もっと軽くとらえればいい、という言葉はわたしには理解できない。わたしは理性の正当性を信じているし、そもそも人間の存在意義のひとつが理性であり、したがって生理的欲求に属するアクションを軽視するなど唾棄すべき思考に違いないからだ。これを恋に対する真剣さととるか単なる独りよがりな理論武装とするかはお読みくださっているあなたにお任せしたい。
 わたしが今回の経験から得たものは実に大きかった。恋愛、という単語は恋と愛とが方向性は違えど、同じレヴェルの巨きさで人間に肉薄していることを表現しているのではないか。だとすればこの二文字の間にある空間は驚異的な密度で存在しているといえよう。