「状況」の巻

 土曜の深夜に病院に搬送され、たった今しがた帰宅した。数日前から便に異常が見られたので納得と言えば納得である。とはいえ激痛に嗚咽を漏らしながら過ごす週末というのは実に気分が悪い。わたしの記憶の中では初となる(幼児の時期に経験したそうだが生憎当人は忘れ去っている)入院と点滴を味わった。明くる日曜には痛みも消えていたのだが担当医不在とのことで月曜に診断し、結果、こうして家でこれを書いている次第だ。とりあえず尿路結石という診断が下されているものの実際にはよくわからないらしい。おそらく教育実習やら私生活やらの各種精神性ストレスが混ざって勃発したのだろう。
 今回の経験でわかったことがいくつかある。ひとつは極限状態の人間の醜さだ。苦しみを味わわされながらもなお生きることを渇望する姿のヴィジュアル的な醜悪さとも言い換えられる。生き延びようとすることは「死にゆく」という絶対的命題に対するいわば悪あがきに他ならず、そのためなら恥や外聞を平気で擲つということかもしれない。涎を垂らしながら普段吐き出さない声色で呻く自らを反省してこう考えた。ふたつめは病院という空間の持つ雰囲気である。明らかにあの場は非日常であり、あまりにセセッションで、それゆえに雑多な思惑が巡りやすい。わたしの収められた合同部屋ではわたし以外の全員が憑かれたようにテレビを見ていたが、ああでもしないと日常的感覚を亡くしてしまうのかもしれない。殊に「動く」という次元に関して。みっつめは幻覚の存在である。わたしはこれまであまり白昼夢とか幻覚などと呼ばれる類のものを経験したことがなかったのだが、記憶としては見た、と言える。網膜に映ったのか脳内で上映されたのかは定かではないが(後者であることを祈る)ともかくさまざまのものを見た。おそらくは猛烈な痛みによるドーパミンの多量分泌が引き起こしたものだろうがともかく「それ」を経験した。残念なのは、あまりに荒唐無稽だし実際にそれらを「見た」のが三日も前なのでほとんど覚えていないことである。
 総合的に見れば「いい経験」であったが、二度とごめんだ。あの注射針の痛みはてきめんに思考を痛覚へ直結させるからである。