「ラーメンズ、もしくは小林賢太郎に関する短い考察」の巻

 ラーメンズ片桐仁小林賢太郎とによるコント・ユニットである。コントの原案や脚本を手がけているのは小林で、片桐は専ら「俳優」に専念している、と定義が可能な二人組だ。言い換えれば小林は自らに絶対的に不足している何かを片桐に求めているわけである。そうでなければ片桐を相手にとる理由がない。この視点はまた次の機会に移すとして、今回は小林に焦点を当てたい。
 一言でいえば小林賢太郎、というか彼の作品は「知りすぎた子供」である。簡単な手品や軽い雑学で誰かを翻弄することに喜びを見出す子供がいるが、その延長線上に彼のコント、あるいは芸のスタイルがあるように考えるのだ。たとえば『片桐教習所』などでは衒いなく手品を取り入れているし、笑いとは畢竟意外性がもたらす驚きと感覚を一にするアクションだからである。他にも、根強い人気を誇る『日本語学校』シリーズや『新噺』『風と桶に関するいくつかの考察』などはやはり「物知りな子供」だった小林を想起させうる。
 が、こうした子供は常に他人を喜ばせるとは限らない。なぜなら彼らは時として「気味の悪い子」と看做されることがあるからだ。事実、彼らの思考はその若干周囲を超越した知識ゆえに感覚も少しだけ先を行ってしまう。「驚き」における陽の作用が「笑い」であるなら、陰のそれは「恐怖」である。完璧に陰陽のいずれかが占めることはなく、強弱はあれ両方を持ちうるのが人間である。小林の思考もここを外れることがない。例を挙げれば『count』のオチにおけるオーディエンスの反応は明らかに恐怖からおこるそれだし、ソロ作品『アナグラムの穴』のあるシーンは不気味としか言いようがない。
 不気味といえば、ラーメンズのコントには、不気味さを湛えた「変人」のキャラクター性を中心とした作品がある。『怪傑ギリジン』『甲殻類のワルツ』『絵描き歌』『ドーデスという男』などがそれである。けれども、いま挙げた三作品はどれも片桐仁が「変人」を演じているもので、しかもひとつの共通点がある。それは、物語が進むにつれ「変人」ではなくなってしまうのだ。では小林の場合はどうなのか。『ネイノーさん』は小林が真っ向から変人を演じた作品である。が、片桐のケースと異なり、最初から最後まで奇行を貫き通すのだ。しかもその傾向は白痴にかなり近い(と表現するのはなかなかに厳しいものがあるが、とりあえずこう書いておく)。ここにも小林の「気味の悪い子供」性が垣間見えているように思うのだ。
 連綿たる知識に裏付けされた大筋に、時折顔をのぞかせる子供っぽさ―その「子供」とは言葉どおりの意味、つまり屈託のない、周囲を安心させる笑顔と興味本位で生き物を殺す残酷さを持ち合わせた存在としての「子供」―を絡めて作品へと昇華させる小林賢太郎は、おそらく娯楽の世界でもかなり「不気味」な位置にいるに相違ない。

 今回は以上です。