「Zoetrope」の巻

 ジャン=リュック・ゴダール『映画史』を観る。これに彩りを添えるのはモエ・エ・シャンドンのホワイトスターというシャンパーニュである。日本の公式サイトには掲載されていない、ちょっとした贅沢である。が、ボトル一本をひとりで空けるのは人気No.1ホストくらいのものだし野郎が昼間からシャンパンを嗜むのは風情がない。そもそも、ひとりでは飲みきれそうにない、といった考えが栓を抜いてから頭を廻った。肝心の中身だが酒屋で一般に見るブリュット・アンぺリアルよりも色が淡く、甘みがかっていた。以前購入したネクター・アンぺリアルよりこちらのほうが好きかも知れない。しかしモエの泡のきめ細かさには唸らざるを得ない。決して派手さはないのに食道全体を湧きあがらせてくれる。
 そういえばシャンパーニュはあくまで引き立て役であることを忘れていた。メインはゴダールが十年間という歳月をかけて完成させた映画のほうである(どうも食べ物の話になると本題から逸れがちだ。これはきっと『話す』という行動と『食べる』という行動とがともに口という機関を介して行われるからであろう。ゆえに料理評論家がはびこり食べ物を取り扱うテレビ番組が隆盛するのではないか、という話をいずれ書こうと思うがそれはまた別の機会にしよう)。今年で喜寿を迎えた彼の、終わってもいない20世紀を包括せんとしたものは何だったのか、ということはこの際どうでもよろしい。問題はその手法である。俳優や脚本を抑え、ひたすら絵画や音楽、文学そして映画を引用して構成されるこのおそらく20世紀最大規模のサンプリング・コラージュ・アートに読み取るべきは、その形の理由である。なぜここまで引用に拘らなければならなかったのか。『東風』のように、装飾を排した「象徴劇」で表現してもよかったのではないか。
 ここには徹底して行われる「私」の払拭、その裏にある不可能性がある。作品を為すことは、結局のところパーソナリティを語ることに他ならず、ゆえに、厚みや深みを与えるためには客観的事実を盛り込んだり、他者の力を過程に組み込んだりしなければならない。日本古来のアーティスティック・アクションである「造化」はその典型だろう。自然の作用を借りるだけの余白を残すという独特の美学が日本にはあった。ではほかに「私」を排する方法があるのかと問えばサンプリングが該当する。ありとあらゆる既存の作品の一部を採集し、引用し、切り貼りして新たなものを創るという1980年代から、殊に音楽において発達したこの方法はおそらく「私」を拭い去るのに最も効用的なのではないか。
 が、「私」を排斥するのは裏を返せば排斥すべき強烈な「私」の存在を証明することに他ならない。長編デビュー作から監督と脚本を自ら手掛け、それ以前にも映画に関してさまざまの批評を行なっていたゴダールは言うまでもなく強烈な「私」を持っていた。ゆえに、そのまま作品へ投影したのでは薄弱たる出来になるのは先に述べたとおりだ。彼はカンヌ映画祭でのトラブルの後にジガ・ヴェルトフ集団として作品を発表したが、これもやはり匿名性の追求の結果だったのではないか。そしてその追求が高まりサンプリングという方法に打って出たのではないか。モエを半分ほど空けたあたり、同時に映画も半分ほど観終わったあたりでこんな考えにふけったが、所詮酔いの中での思考、確信があるわけではない。明確にわかったのはシャンパーニュはひとりで飲むべきではないこと、縦んばひとりで飲むにしてもハーフボトルにすべきだということくらいだ。

 今回は以上です。