「ラーメンズ、もしくは片桐仁に関する短い考察」の巻

 以前、小林賢太郎に関してちょっと書いたので今回は相方である片桐仁について。公式には彼は「俳優」という役割を与えられており脚本や構成の一切は小林が手掛けている、ということになっているが何しろ小林は平気でオーディエンスに嘘をつく人間なので定かではない。とはいえ、疑っても仕方ないのでとりあえず鵜呑みにしておく。以下本題。
 片桐仁がどの程度ラーメンズにおいて小林が必要としているのかを考えるのは簡単だ。小林ソロの作品とラーメンズのそれとを見比べてみればいい。ラーメンズの舞台を一回でも観たことがある人ならわかると思われるが彼らの公演でいわゆる「セット」が使われることはまずない。あって椅子や机代わりの単色の箱、もしくはかつらや眼鏡といった小物程度だ。衣装もほとんど特徴がない。彼ら以外には何も置いていない、というケースはきわめて普通のことである。一方、小林のソロ作品だが、巨大なスクリーンや各種音響、手の込んだイラストや衣装などが舞台に現れる。簡潔に言い換えれば、こうした大がかりな舞台構成一切と棒引きにできるだけ(もしくはそれ以上の)価値を、小林は片桐に見出しているのだ。
 さらに、ラーメンズには小林がほとんど動かない作品もある。逆を言えば片桐だけが発声し動きまわるわけだ。率直な話、『路上のギリジン』などは小林が舞台上に居なくても成立するのではないかとさえ思う。しかも、これらはみなどうやら片桐が自身のアイディアをもって動いているらしい。ここには片桐と小林の一騎打ちがある。脚本でオーディエンスに笑いを突き付ける小林と、演技で笑いを打ち出す片桐。その結果は小林自身が笑ってしまうことで現れる。『怪傑ギリジン』では片桐が登場する以前からすでに半笑いで、中盤には吹き出してしまうし、『たかしと父さん』では口を開けて必死に笑いをこらえていることさえある。
 ここにおいて『片桐教習所』は特異だ。これは小林が「片桐仁になるための教習所」に通うという設定で、これまでの片桐が舞台で披露してきたネタを小林が模倣するという内容である。が、動きは小林が行うものの発声は「アナウンス」の片桐が務めているあたりが不十分であり、このあたりですでに小林は敗北しているのだが。しかも結局、途中で笑いがこらえきれなくなり少しの間だけ思わず俯いてしまう。ここには小林による片桐への紛れもない憧憬がある。小林が持ち得ない何かを片桐が持っていることを小林自身が強く実感していることの証明だ。この憧憬に対して、小林はいくつかの作品で立ち向かおうとしているのだが、この続きはまた次の機会に。

 今回は以上です。