「ラーメンズ、もしくは小林賢太郎と片桐仁とに関する短い考察」の巻

 作品はとにかく作者の一部である。逆を言えば、その作品と彼そのものをしてひとつの形を為す。ということは、何かを作る人は彼自身に足りない決定的な何かの存在を知っており、その補完を追求するべく作品を残そうとする。片桐仁とは小林賢太郎にとってその「決定的に足りない何か」に他ならない。ゆえにコンビを結成し活動を共にするのだ。それはある種の憧憬とも言い換えられる。そしてその憧憬は、時に直接、時に婉曲されてコントに現れる。
 『片桐教習所』はその典型だ。これは小林が「片桐仁」になるべく片桐から自動車教習所の無線教習のようにレッスンを受ける、という設定で、片桐が『たかしと父さん』などで披露してきたギャグを小林がトレースするのである。つまり、これは片桐にしか生み出せないものを小林が模倣するという構図となるわけだ。音楽でいうところのコピーバンドや絵画でいうところの模写に近い性質を持つ。結果としてコントの途中で小林は笑いをこらえることができずに俯いてしまうが、これは片桐仁の持つ力が小林にとってどのようなものであるかを雄弁に物語っている。『バニー部』という作品がある。これは『たかしと父さん』や『怪傑ギリジン』といった、小林がまったく動かず、片桐だけが舞台上を動き回るといったこれまで存在したコントの逆のシステムを採用する。具体的にいえば、片桐が舞台中央に座り、小林がひたすら動き回るのだ。ちなみに『たかしと父さん』『怪傑ギリジン』いずれの場合でも、小林は吹き出してしまったが、このときの片桐はしっかりと前を向いていた。小林の胸中は察するに余りあるものがある(ちなみにここでの感触からソロプロジェクト『POTSUNEN』へ発展すると邪推できるのだがいかがか)。
 また、ラーメンズのコントには小林が立場として上にいる、という設定のものがある。『日本語学校』シリーズは言うに及ばず、『器用で不器用な男と不器用で器用な男の話』『蒲田の行進曲』『甲殻類のワルツ』『受験』『本人不在』『金部』などがそれに該当する。これはあえて書くまでもないことだが、小林の片桐に対する嫉妬のねじ曲がった表出だ。こういうタイプのものを観ると、どうも表現者と類される人々は無邪気すぎると考えてしまう。
 おそらく、ラーメンズは小林が片桐からさまざまなものを引き出し、具現化し、オーディエンスとの最大公約数的視座でもって披露しているのだと考える。言い換えれば、小林が片桐をいかに読み取れるかがすべてである。彼らの可能性は片桐の中に埋蔵される何かと、それを加工する小林の手段の広さに他ならない。これが枯渇するのはいつか、という問いに対する明確な解答は目下ひとつしかない。それは二人のいずれか、もしくは両方がこの世から消えたときである。なので、統計上あと40年は楽しめそうだ。

 今回は以上です。