「親愛なるアラン・スミシー氏に捧ぐ」の巻

 卒論に載せるか否か迷っている題材がある。今回の論文においては別にそれほど必要ではないけれどもほぼ確実に核へ迫っている素材だ。が、現時点で未完であり、しかもテレビ番組という性質上「参考資料一覧」におけるうまい表記が思い当たらないので懸念しているのだ。その素材とはアニメ「らき☆すた」である。
 作品を為すことはすべからく自身をそこに投影する。それは私小説や自画像にかぎらず、題材がなんであれテーマがどうであれ自身を語る、という範疇を出ない。ここにおいて念頭に置くべきはナルシシズムへの埋没だ。言いかえれば、創作が専ら自己の投影であるなら、作品それ自体にすでに作者自身が介在しているのだから、「私」を捨てなければ客観性や存在感を得られないということだ。その方法のひとつにセルフパロディがある。戯画化した自身を描くことによって、作品を鑑賞する人間が持つ作者に対するイメージをそちらへ引き付け、真に存在すべき自らの像をその背後へ追いやるわけだ。作品の外にあるはずの自身を作品の中に閉じ込めて、「作者」の存在感を希薄化する(=作品が作者の作り上げたものだという事実の否定→作品の非現実性の否定)とも言える。思うに手塚治虫はこのあたりをよく理解していたらしい。有名どころの彼の作品には「戯画化された手塚治虫」が何度となく登場することは世間のよく知るところだろう。
 話題の中心を「らき☆すた」に戻そう。これは原作の漫画ではなくアニメ版を取り上げなければならない。わたしが標的とすべきは漫画の作者たる美水かがみではなく、アニメ版の制作を行なっている京都アニメーションだからである。彼らが披瀝するセルフパロディとは何か、と問えば(視聴者各位には既に思い当たっていることだろうが)「涼宮ハルヒの憂鬱」を引用元に持つ膨大な(と書いても決して大げさではない)数の描写だ。ひとつひとつ例示するだけでも骨の折れる作業なのでここには書かないが、それほど多いのだ(とお察し願いたい。特にこの二作品をご存じない方には)。先に述べた作者が自らを作品に登場させることの効能が作者像の希薄化であるという方法論を用いれば、この「引用」の動機は京都アニメーション自身による「涼宮ハルヒの憂鬱」からの脱却に他ならない。それはある程度の名声を得た表現者ステレオタイプな行動、つまり外部によるレッテルへの嫌悪とその否定に分類されるべき、きわめてありふれたアクションだ。ゆえに「表現者」と呼ばれる人々は新規作成へ向かうわけである。
 この考えによれば京都アニメーションの「らき☆すた」に対する姿勢はかなり狡猾といえるのではないか。世間より与えられた「『涼宮ハルヒの憂鬱』の京都アニメーション」というイメージを払拭するその踏み台として「らき☆すた」を用いているという構図になるからだ。老婆心ながら付け加えておくが、これはあくまでわたしの妄念であり事実ではない。が、論理的性格を持った一視点として確かにここに存在している。
 さて、以上のことを卒論に組み込もうとしているのだがいくつかの問題がある。ひとつは現在未完であること、ふたつめはこの論の根拠となるべき資料を提示する際、文章というメディアでは困難が多すぎること、みっつめはこの類の作品が学術論文の題材として適当であるか否か、わたしには判断できかねることだ。これを読んでくださったあなたにこの裁量を委ねたいと考えるのはいささか不毛だろうか。

 今回は以上です。