「シュレーディンガーの彼方に」の巻

 道満晴明の短編集『性本能と水爆戦』はわたしの持っている漫画の中でもかなり好きなほうで何回も読み返したり適当にページを開いたりしている。ここでも過去に話題にしたかもしれないが。その中から「PHANTOM PAIN」を話題にしたい。題名にとられているのは医学用語で、日本語名を「幻肢症」という疾病だ。これは欠損しているはずの身体の一部(が引き起こしている)の痛みを脳が感知するというもので、たとえば戦争で脚を失った人がなぜか脚の痛みを訴える、というような感じである。決して珍しい症状ではなく事例も少なくない。さて話の内容は、退役兵とポルノ女優との短くかなしい物語、としかここには書けない。どこかひとつでもここに書いてしまうと結局ほとんど全体を描かなければならず、それは利権云々以前にきわめて無粋だと思うからだ。気になる人は上記の短編集を購入されるか、知り合いに借りるなりしていただきたい。ところでなぜこの漫画を語っているのかというとニュースに関連して、物語に登場する一節を思い出したからという至極単純な理由による。その一節を以下に引用しよう。


> 誰かが
> 言ってた

> 猫は
> 死に場所を
> 探すんじゃなく
> 最後に生きる場所を
> 探すんだと

> 全く
> 賛成だ


 猫とは実際において空虚な存在である。別に触ることができないとか透けて見えることがあるとか、ニュートリノ並みに捕捉が不可能というのではない。そうではなくて、専ら人間が勝手なイメージを押しつけたうえで人間と生活する生き物だという意味である。主体性が感知できない、ともいえる。特に表情らしいものもなく、犬のように上機嫌なときに尻尾を振るでもない。若い時期こそ興味が湧くものには髭をセンサーよろしくその先端を対象に向けるが、年を経るにつれ興味という概念そのものを失ってしまったかのように泰然自若としている。ゆえに彼らは、人間各々に「猫自身」という主体性について考えることを諦めさせ、しかしそれゆえに人間が勝手に色をつけて楽しめるという点において文化のうえでさまざまに振る舞ってきた。かの漱石が主人公に据えたり、谷崎がその尻尾にある種の憧憬すら抱いたのも畢竟猫が「白いカンバス」として人間に認識されてきたからなのだ。
 別に「猫は死を予知しない。それは人間が感知したのを猫に仮借しているすぎない」と言いたいのではない。その考えすらも人間の思い込みの上に成り立っており、猫が死を感知しないという証拠はどこにもないからである。同時に、わたしは猫が実際に感知できるか否かを立証したいともしてほしいとも思わない。なぜなら、猫はわたしにとって、もしくは人間にとっての数少ない「自由」という概念を象徴する存在だからだ。当然、この考えも人間本位であることは言わずもがなであるが。