「purely」の巻

 誠に厄介な話であるが「純粋」という言葉には甘美というかとにかくプラスのイメージが癒着しているらしい。「純」は100パーセント、「粋」は削ぎ落としきったものという意味が与えられており、合成すれば完全な、或いは混じりっ気のないという程度のニュアンスしか与えられていない。にも関わらず、少なくとも日本においては「純粋」には美徳のベクトルが妄想されているのが実際だろう。
 この「純粋」には言うまでもない悪が潜んでいる。純粋な、100パーセントの追求は人間の基本的に持つ清潔願望の為せる業だ。何もかもが均整でなければならない。もしくは完全であることへの快感である。油や食べかすで汚れた皿より磨き上げられた皿に「美」を感じるのはこのためだ。この思想を社会に適応すると、マイノリティの迫害、言いかえればファシズムに繋がる。人間すべてが同じ思想、言葉に統一される。確かに愉悦を生み出すだろうが、歴史を省みればそれは紛れもなく「悪」だ。
 また、個人的な問題へ置換するならば、何事も100パーセントであればほぼ確実に道徳的悪へ進行する。インドネシアには「行きすぎた趣味はほとんど罪悪に等しい」という意味の諺があるが、趣味に限らず、何事にも純度が高いと罪悪となるはずだ。仕事に明け暮れ家庭を顧みずに家族における生活を壊してしまうのはその典型か。また、純粋な感情も問題である。これはつまり感情の赴くままにアクションを引き起こすことを示す。感情を抑制せずに行動すれば悲惨な結果になるのは言わずもがなだ。ここにおいて「意志の純度」を測る方法が導かれる。度数というのは高さに比例してそれが引き起こすものが大きくなるものだ。ちょうどアルコール度数の高い酒が泥酔者を山積させるように、あるいは志の高い者だけが自身の夢を掴みとれるように。つまり、もたらされた結果が大きければ大きいほど、純度の高い意志だった、ということだ。ここにおいて定義づけられる「最も純粋な意志」とは何か。それは「殺意」に他ならない。

 今回は以上です。