「Listening in the rain」の巻

 雨の降る音が眠気を引き起こすことがあるのをご存じだろうか。あるいは頭の中がぼんやりとなる、と表現したほうがいいかもしれない。この代表的な理由は、雨の音に胎内回帰的な効果があるためだ。雨の降る線的な音と羊水を通して胎児の聞く血流の音が似ているために起こるらしい。もちろん、胎内の時分を記憶している人はいない。けれども鼓膜や脳がその音を感じていたのは確かであり、つまり、雨の催眠効果は無意識的、あるいは本能のレヴェルで人間と交感しているのだろう。なので、なるべく雨の日は音楽を避けるようにしている。どんどん「意識」の先行する自分を少しだけ解放するためであり、同時に、何より眠くなるのでいろいろと操作をするのが億劫になるからだ。
 敢えて聴くならジャズだろう。ジャズは民族性の音楽であり、「民族性」とは人為的影響を排しているという意味を持つ語だ。マイルスの提唱したモードジャズのみならず、そもそもジャズはめいめいに楽器を持ち寄って即興でセッションするのがお家芸である。プレイヤーが本能的に生み出すコードやリズムによって成される音楽、とも言い換えられる。雨とジャズが反発し合わないのはいずれも「本能の音」という次元で成り立っているからなのだろう。
 胎児の聞く音楽とは畢竟無調音楽である。羊水によるエフェクトを施される、茫洋とした中に唐突に音が繰り出されるようなまさに「無調」の音楽である。いま、わたしは降りしきり、また弾かれる雨の音をベースラインに土取利行と坂本龍一の『ディスアポイントメント・ハテルマ』を聴いている。これはきっと胎内の、意識という分厚いフィルターを手に入れる以前のわたしが感じていた「音楽」に理論上最も近い。「意識」の塊たる論文を書いている苦しみを癒すにはうってつけなのではないか。ちょうど眠くなってきたのでこのへんで筆を置く。