かくしん

 NHK総合「Changes〜ドラゴンアッシュ 10年の軌跡」を観る。まずはデビューから10年という月日が経過していたことに対する驚嘆と納得があった。番組冒頭で「ミクスチャーロック」という彼らの音楽に対する形容があったので若干の不安を覚えたが、後に「傾倒」という単語が出てきたので安心した。ドラゴンアッシュの音楽は九分九厘、バンドの、もしくはKjの「傾倒」にある。
 『Viva la revolution』(というよりはシングル『Let yourself go, let myself go』)以降、彼らのアルバムはほとんどコンセプトアルバムと定義づけて差支えないだろう。三枚目の『Viva〜』ではヒップホップへの接近が著しく、続く『LILY OF DA VALLEY』ではLimp Bizkitのような所謂ミクスチャーロックを押し出しつつも電子音楽に食指を動かしているのがわかる。『Harvest』でそれは決定的となり、遂にテクノ系の人脈をフィーチャーしたリミックスアルバムまで作ってしまった。『Rio de Emocion』ではエイフェックス・ツインのようなドラムンベース・トラックとラテン・サウンドが共有されたもので、しかも確実に「ラテン」というキーワードは『INDEPENDIENTE』で継承されている。ちなみにEvery Little Thing持田香織との共演曲「wipe your eyes」も聴いたが、未だにKjのアンテナにはドラムンベースが引っ掛かっている感がある。
 とかくにドラゴンアッシュの楽曲は形容しがたい。しかし、それでもなお作品として成立しているのはKjという人物、あるいは彼の音楽的核心が(意識的にせよ無意識的にせよ)確立されていてるからとしか結論づけられない。言い換えれば、Kjというゼロポイントの存在である。この「ゼロポイント」とは言わば負の数であり、何を乗算しても負になってしまう=数値は変化はするが「負の数」という条件は変わらない=ベースの普遍性を換言した語と考えて頂きたい。もちろんこの手法にマイナスが存在しないではない。その欠点とは楽曲が「〜的な」とか「〜風の」というサウンドに帰着してしまうという逃れ難い事実である。何にせよその音楽が持つ質の真なる部分に近づくことは出来ない。追究がないからだ。結果としてこの手の音楽、もしくはミュージシャンが生み出す効能は「試供品」の域を出ない。別の言い方をすればリスナーが他のジャンルへ手を伸ばす契機として機能するということだ。しかも昨今は評価と解釈=レビュアー全盛の時代だ。ドラゴンアッシュの新作を評論家、あるいはそれに類する有象無象が「〜のような曲」と形容すれば、もともとドラゴンアッシュのファンであった人々はきっと比喩の対象へ興味が向くはずだ。水先案内人的役割と言明してもいいだろう。
 これにより、音楽的世界の拡張が引き起こされる。おそらくドラゴンアッシュの真の功績はここにある。しかし同時に「〜風」な連中の流入をも促進させたのは疑いようもない事実だ。尤も、そういう連中は淘汰されるのが世の常なので音楽的には問題が無い。が、それらを上手に操るプロモーションが存在するのも真なわけで、結果として群雄割拠的様相と衆愚的嗜好が蔓延しているのが現状である。目下だけを鑑みればドラゴンアッシュの十年間に及ぶ活動が生み出したのは功績よりも功罪のほうが大きいと言わざるを得ない。この事実の裏側には、「真に自らが求めるもの」を求めることを止めてしまった人々の存在があるので一概に彼らを非難することは出来ないのだけれども。

 今回は以上です。