Other

 小田和正による「クリスマスの約束2007」を観る。第一回においてすべてのオファーを断られたと小田は漏らしていたがそりゃそうだろうと思う。あの声と旋律のつかみ方を前にして、たとえそれが自分の曲であったとして誰が小田と共に歌おうと思うだろうか。自信をその糧とするミュージシャンたる職業に就く人々にとって、彼の力を目の前にして委縮するのは正直つらいことであるに違いない。
 小田和正の魅力というか人気の理由というか、とにかくなぜ彼が他人を惹きつけるのか、ということについて今回アイリッシュウイスキーを呑みながら至った考えは「自分ではない誰かのために歌うことが出来るから」というものだった。それは、さだまさしが共作の際に言った「誰かに捧げましょうよ」という言葉、また、佐野元春がオーディエンスに対し「一緒に歌いましょう」と言ったことにも如実に表れている。表現とは基本的に、もしくは宿命的に自らを語ることの域を出ない。一見他人を語っているように感じてもそれは結局のところその対象を通して自らを語ることに他ならないわけで、とにかく「作者」たろうとするには自己の部分的払拭が不可欠である。
 小田はコードを確認する以外はずっとオーディエンスに向かってまっすぐに目を向けて歌っていた(という風にわたしには見えた)。歌っているとき、決して目を瞑ったりしない。前を見据えて歌っていた。これは、ステージに立ったことのある人間ならわかると思うが非常に怖いことだ。絶対的な自信とかそれを形成するキャリアとか、もしくは「誰かに届けたい」という気持ちとかが無ければ前を向いて歌うなど出来はしない。小田はそのすべてを持つ数少ないアーティストである。あるいは、そうであるらしいことを今回で確認できた。殊に印象的だったのは早稲田の合唱サークルとのコラボレイトにおいて、「言葉に出来ない」瞬間は何か、と問われたときの彼の回答――「自分が歌っていてお客さんが涙を流していたとき」という一言である。彼は独壇場であるはずの舞台においてさえ、他人を観ている。そこで「言葉に出来ない」と感じる。「言葉」とは畢竟恣意の権化である。無駄に自我の膨れ上がった昨今の若人が次々と言葉を生み出すのはその片鱗であろう。逆をいえば「言葉に出来ない」とは、自分の思考や意志が取り払われた、もしくはそんなものが介入不可能な状態を指す。先に述べた「自己の部分的払拭」が行われた瞬間ともいえよう。
 前述のように「誰かに捧げる」ことが出来るものを作るのは困難を極める。しかし、文学や音楽と言った凡そ「作品」と呼ばれるべきものに魅せられた人間としてこの境地を目指すことは大げさでも的外れでもないだろう。目下、わたしは「自分の捧げる」ことで精一杯である。いつの日か、何かのアクションでもって「誰かに捧げる」ことがわたしにも出来るだろうか。その答えは風に吹かれている。

 今回は以上です。