第5回 定礎とニヒリズム

 お久しぶりです。いやあ金にも単位にもならない論説を書けるこの幸せ……(笑) 夜にはイカ天あるしサラリーマンNEOあるし「みなみけ」最終回だしで忙しいので、今のうちに書きます。
 「ヤンデレ」という単語はインザハウスな方々の間では浸透してきたのでしょうか。ニコニコ動画のコメントやタグなんかにも見かけたり、あとわたしのブログにもヤンデレ関連の記事からリンク受けたりしてるんで(皆さんホントありがとうございます)そこそこの市民権は得たのでしょう。喜ばしい(?)ことです。

 が。

 この「市民権を得る」っていうのが曲者なんです、特に「言葉」においては。つまり簡単に誤謬が生じてしまうという。しかもスラングだもんで明確な定義づけがなされないまま、いつの間にか消滅したりするわけで。「定義を広く持つ」のと「定義があやふや」ていうのは似て非なることで、「あやふや」てのはやっぱり回避すべきなのですよ。ま、さっきも申しましたが所詮はスラングなんで淘汰される運命にはあるんでしょうけど。でもまだヤンデレ的キャラは現役っぽいですよヌェー(・3・) ネタバレになりますけど『こどものじかん』とか一瞬「あれ?りん黒化?」とか思ったら終盤でレイジが病んじゃって。この構図って筆者が我妻由乃を分析したときに挙げた例じゃんよっていうかさりげにこういう要素を混ぜるところが本当にアニメ業界ってあざといわーとか思ってみたり。

 閑話休題

 んでヤンデレの浸透にともなって見かけるのが「ヤンデレは愛」ていう台詞なんですが、今回はこのフレーズを考えてみたいなと。てか愛ってなんだー!ていう「それなんて80年代青春ドラマ?」ということを真面目に、かつヤンデレ的視座で考察してみたいと思います。
 まず「愛」を考えるにあたってニーグレン先生にはご登場頂かざるを得ません。補足しておきますと彼はスウェーデン神学者で『アガペーとエロース』という著作で愛について論じております。アガペーと言うのは新約聖書に基づいた神の愛、てことは理由とか見返りとかを超越した愛のことです。一般に「無償の愛」みたいに呼ばれているものと考えてくださって差支えないでしょう。一方、後者のエロースは「人の愛」でも訳しましょうか。ギリシャ哲学、主にプラトンの提唱した欲望を礎とする愛です。ヤンデレは名の示すとおり「デレ」から発生しているので「人の愛」に属するのは確かなはずです。たとえヤミ状態における行動がありえないものでも、その裏には「自分を認めてほしい」という見返りを求める欲望があるはずなので(そもそもアガペーは神のみが認識できる存在、という定義がなされているので人間とは一切関係のないものなんですが)エロースに類するわけです。ヤンデレはエロス。ヤンデレエロス。

 閑話休題 2nd MIX。

 ただですねー、日本人が開国以来ずっと思い悩んできた「愛」の問題も無視できないわけですよ。それは「恋」との区別です。漱石の『こゝろ』におけるKの自殺にそれは象徴的です。明治という新時代に燃えていたKは当然、外来文化である「愛」に興味を持ち、下宿先のお嬢さんに抱いているのも「愛」だと信じていました。が、彼は結局その気持ちが「愛」ではなく旧態依然の「恋」だったことに絶望するわけです。長いこと温めていた確信がまったく異なるものだった……「早く死ぬべきだったのに」という意思はおそらくここに理由を求められることでしょう。そこで筆者はこう考えるのです。

 日本人は「恋」と「愛」との区別が未だに出来ていないんじゃないか、と。

 そもそもエロースは見返りがどうの、とか言われてますけど実際に確かなのは「人が持ちうる愛」という定義だけです。たとえば兄弟の愛とか師弟の愛とかに果たして「見返りを求める」気持ちがあるのかどうか、疑わしくはあります。神学の基盤は神の存在を考察すること、人間を超越したものの存在を認めるにはどうすればいいのかを追究することです。短絡的に言えば「神の愛」と「人の愛」とを引き離した時点で充分で、見返りとか欲望に基づくなんてのは後付けなんじゃないかとさえ筆者は思うわけです。
 先に筆者は「ヤンデレはエロース」とか書きましたが、もはやその言葉さえひっくり返してみたいと思います。ヤンデレが欲望を理由に持つならば、それはエロース=愛ではなく恋にすぎないのではないでしょうか。ここをもって「ヤンデレは愛」とか軽く言っちゃう人に一瞥をくれて今年最後のヤンデレ小論ということで。

 今回はここまでとします。