The Long and Winding Road

 たとえば月並みだが「大学に入って何をやってきたのか」という質問がある。これに答えられないがゆえに就職から逃れたふしもあるくらいに、わたしは話題に出せるほど大学で何をしたわけではなかったのだと今更ながら考えている。大学を出てすぐに就職を予定している人は、この質問に面接で回答すべくサークルだの研究会だのに所属しているのではないか。わたしは別に大学で何をしたいわけではなかった。なぜなら「入学」という瞬間そのものがそれまでの人生の目標だったからで、極端な話、合格した翌日に自然死を迎えていても特に悔いはなかったと思う。ではなぜ大学生になることを目指したかといえば好きな勉強をするためである。現在、というか目下終わりつつ「現在」だが、その状況下に置かれているのは喜ばしいことだし、大学にはその環境以外に求めるものが無かった。
 はたして大学なる機関はどんな意味を持つのだろうか。「就職予備校」という二つ名は、聞いたことのない職種へ就くゼミ仲間を見ればたちまちのうちに霧散する。だが、わたしは貧乏人の子供ゆえのがめつさから、大学生活を可能な限り活かした就職をすべきだと考えている。したがって学部と連関を持たない会社に内定した彼らには違和を感じざるを得ない。というか、よほど適応能力が高くないと三年で転職というのも笑い話にすらならない。いずれにせよ「もったいない」の一言に尽きるわけだ。繰り返すがこれは志だの現実を直視するだのといった思考ではなく単なる貧乏根性の賜である。「大学には友達とかいないし一緒に遊ぼうとも思わない」というと「じゃあ何のために大学に行ったんだ」と言われる(実の親にさえ言われた)けれども、四年間分の生活費および学費と棒引きに出来るだけの進路を考えていない連中にこそ、上の言葉を捧げたい。逆の言い方をすれば、そのような進路を選べないのであれば教育を受ける必要はないだろう。無論だが大学なる環境に出会いやら何やらを期待する人々を非難するつもりはない。それはそれでおそらく彼らなりの幸福の形なんだろうし、それだけの余裕があるなら存分に消費するに越したことはない(余裕とは往々にして、消費して初めて真価を発揮するものである)。つまり、これは余裕が無い人間が分不相応な生活を望んだ際に漏らした歎息である。