剃刀の壁

 映画『ブラック・レイン』を途中まで観て止めた。わたしは、こうした日本を取り扱う外国映画には徹底して所在なさを覚える人間である。吹き替えにおける日本語の違和感を拭えなかったり、かといって英語を解さないがゆえに原語で観ることも出来ないことが歯痒かったりというのもないではないが、最も悩ましいのはそこに描かれた日本像に対する、一種不気味ともいえる心持である。70年代の『ニッポン株式会社』や最近での『ロスト・イン・トランスレーション』に至るまで、わたしはこの気持ち悪さを味わい続けている。『太陽』においてはそこそこ薄められていたとはいえ合致しないではないのだ。
 この違和に対しアンサーではなくともベッドフェローとなるのが蓮實重彦『反-日本語論』である。さっきも何章かを拾い読みしたのだが、この本は世間で言う「言葉の壁」をかなり的確にスケッチしている。それは彼にとって外国語と日本語との間に生じるズレというのを家族という最小限度の社会制度の中で日々実感している、或いはしていたからと思われる。たとえば日本語に吹き替えられることが前提とされる午後9時台のテレビ映画番組において『8Mile』を放映するのはなかなか難しいことだと思われる。Rapという音楽技法を核のひとつに据えている以上、詩歌の押韻において、西洋や中国のそれとは異なった文化を育んできた日本ではその面白みを感じるのは困難と言わざるを得ない(それ以前にこの国ではヒップホップという文化そのものが根付かないという事実もあるが、それはまた別の話)。ゆえに日本語字幕における訳者の面目躍如には頭が下がるところだ。
 けれども、わたしは言葉における違和感のみを抱いているのではない。先にも述べた描写のさまざまにおいて、である。結局のところこの「違和」というのは「映画の中で描かれる『日本』が平生実感する『日本』と完全に合致しない」という感慨に他ならない。こうして日本語を読み、話し、生活している空間は日本であるはずなのに、なぜか自分がいる空間と一致しないのだ。『ブラック・レイン』のときは「大阪だからかもしれない」と片付けたのだが『ロスト・イン・トランスレーション』で映る渋谷の風景は高校生の時分にさんざん通ったあの街とどうしても結びつかない。「全部セットとCGでロケはアメリカでやってる」などと説明されたら納得しかねないほどに、である。
 最初に観た小津安二郎の映画が『晩春』なのだが、冒頭から驚かされた。笠智衆演じる教授が書斎で原稿を仕上げているシーンを思い出していただきたい。おそらく庭の位置から撮っているのだろうカットだが、娘役の原節子の頭の位置が上限すれすれなのである。それまで洋画に熱を入れていたわたしにとって、あんなに高い位置に人間の頭がある描写というのはそれだけで衝撃だったのだ。それはまさしく「床に座って机に向かう」文化と「椅子に座って机に向かう」文化との相克を味わった瞬間だった。たった数秒のシーンでそこまで差異が浮き彫りになるかと考えさせられたものである。
 映画という多チャンネルを駆使しなければならない媒体で作品を為す以上、そのチャンネルそれぞれにおいて制作者の育った環境、文化がにじみ出るものである。その「にじみ出たもの」が視覚・聴覚をもって一気にわたしに迫り、しかもわずかながらの違和をシーンの端々から放射させるがゆえにあの「日本」に不気味さを感じるのだろう。無論、これは日本に限ったことではないことではあるかもしれないが。

 今回は以上です。