Character

 先ほどmixiのコメント返しをしていたら気づいてしまったので書いておく。今回のR-1ぐらんぷりにおける芋洗坂係長というお笑い芸人についてだ。彼は今回、初出場でありながら優勝者と二点差という快挙を成し遂げた。それ自体はまことに立派で賞賛すべきことである。そのうえ優勝者決定の直前においても「卑屈な係長職」というキャラクターを生かし、なだぎ武に「(優勝者は)あなたですよ」と呟いて笑いをとっていた(これは恐るべき余裕である)。問題は彼が、もっと詳しく書けば「芋洗坂係長」という名前で彼が売れてしまうだろうという予測にある。
 今回、審査員のほとんどがしきりに口にしていた言葉に気付いただろうか。それは「この先」とか「ここから」といった、将来性に関するフレーズである。ここから彼らが登場するお笑い芸人各位に将来性をもって接しているのは想像に難くない。この一面において他のどの芸人よりも芋洗坂係長は劣っていると言わざるを得ない。なぜなら彼は自身の名称として「芋洗坂係長」という看板を負っているからである。キャッチコピーですらない「正式な」名称なのだ。ここで将来性が失われることの理由は見えてくるだろう。お笑い芸人は常に新しいものを求める。「笑い」とは驚きのプラス方面の作用だからだ。ゆえにオーディエンスも基本的に新しい笑いを好む。バカリズムが「トツギーノ」を捨て、中山功太は「DJモンブラン」から紙芝居芸へシフトした(徳井義実の準決勝敗退の理由もここにあるような気がする)。昼間に林家たい平の『お菊の皿』を観たが、古典落語で有名なこの噺を大胆にアレンジ*1を施して見事に客を沸かせていた。しかし、「芋洗坂係長」として「彼自身」が売れてしまうとアレンジの余裕が非常に狭くなってしまう。「50代の卑屈気味な係長職」以外の振り幅が一切なくなってしまう。そのうえ、売れると決まってそのネタ、あるいはその類型をオーディエンスが期待するため、二重にクリエイティヴィティが失われてしまうのだ。さらに、キャラクターが飽きられると同時に彼自身をも興味の対象から外されてしまいかねないだろう。これは彼にとってゆゆしき事態ではなかろうか。
 ならびに、なだぎ武との差はここにある。ディラン・マッケイの物真似を駆使して、ここ一年ほどさまざまのテレビ番組に出演したが彼は「なだぎ武」として売れた。「ディラン」とクレジットされて出演することも決して少なくなかったが、彼はやはり「なだぎ武」という名称で世間に認知された。ゆえに今回のように全く新しい(実際のところ、キャラクターに依存しないという点においては正反対とさえ言える)芸で挑むことが出来、その「将来性」によって優勝するべきと判断されたのだろう。点数としてはたった二点だが、この溝は非常に深いのである。なお、これはコントを主軸とするピン芸人のほとんどに言えることかもしれない。イッセー尾形は「バーテンの人」や「アトムおじさん」ではなく「イッセー尾形」として好評を博したがゆえに多くのキャラクターを演じ、それらが評価されうる場所に立ったのだ。志村けん劇団ひとりといった、キャラクターを用いるコントを得意とする芸人はみな、キャラクターそのものではなく「キャラクターを演じる芸人」としての名前が広まったからこそ長く舞台に立てているのである。芋洗坂係長へのエールとして、早急にこの事実を把握していただきたいと願う今日この頃だ。
 今回は以上です。

*1:なんとオチまで変わっていた。