「ツボ」の巻

 笑いに関するプラグインは人間の感性におけるどのそれよりも鋭敏で脆弱である。簡単にいえばいわゆる「ツボ」から外れてしまうと失笑どころか嫌悪を引き起こす。笑いは共感によってのみ怒るのだ。最も独創に満ちた感性であるがゆえに過敏なのだけれども、その共有が共感によってのみ満たされるのは実に逆説的であるといえよう。この点において笑いのツボは性癖と非常に近い。オリジナリティが与えられれば与えられるほど敬遠され、公約数的表現や解釈を求めれば求めるほど「つまらない」と一蹴される。つまり笑いを糧に生きる人々はそのバランスを保つことのできる才能の持主である。
 先に笑いはツボの外れ具合によって嫌悪を引き起こすと書いたが、さらに厄介な事態もあるのだ。それは誤解である。誤解は決して消えない。ただ妥協する点が見つかったのでそれを「解決」と見做して過ごしているだけであり、誤解そのものは残り続け、双方は誤解を抱えたままの状態を保持するのだ。解かれたと思った誤解が再発するという場面によく遭遇するのはそのためである。さて、笑いが誤解されるとはどういうことか。これは『おくのほそ道』におけるそれこそ呆れてものも言えない推論を例に挙げたい。或る人が本文に書かれた芭蕉らの辿ったルートと日程とを見て「常人の歩ける距離ではない」→「芭蕉は何らかの肉体鍛錬を行なっていた」という思考から「芭蕉忍者説」を語っていた。ここまでくると苦笑すら起こらず、わたしならその場で回れ右をしてしまうところだ。書かれていることが事実を照応させて不可思議であった場合、なぜ「文章」を疑わずに都合のいい「事実」を作り上げてしまうのだろうか。奏者が拍子をとりづらいからといって勝手に演奏し、指揮者が奏者に同調するようなもので、誠にお粗末な思考だ。事実として受け入れ難いなら「本文」のほうに嘘が交じっていると考えたほうが論理的かつ真実性がある。しかしこの「芭蕉忍者説」、なかなかに有名でいい大人が平気で口の端に上らせることもあるそうだ。どうやらかの「俳聖芭蕉」が紀行文にフィクションを混ぜ込むとは彼らには想定外の事柄らしい。文学的素養以前に物事を考える手順が身に付いていないと考えざるを得ない。ここにあるのが実は「誤解」ではなく「誤謬」であることはお気づきだろう。
 つまり、笑いはほんの少しの誤差で嫌悪感や誤解の原因となる。結果として公約数的笑いが溢れてしまい、笑いはどんどん鈍くなる。質が鈍ったら新鮮さで勝負、ということで消費のスピードがどんどん加速されてただ新しいネタや芸人さんが引き上げられて急速に凋落する。世間様との溝が深まって「人間関係」が窮屈になるのを恐れて、鈍い笑いは量産される。わたしに言わせればくだらない、やってられない現象だ。辛うじてわたしは笑いで飯を食う人間ではないので、このジャンルに関しては好き勝手出来る。が、世間様の目という人間関係の要はどんどんと生活に侵食していくのだ。そして「普通に面白い人間」が世を歩き回って毒にも薬にもならない言葉を吐き出していく。罪のない微笑に満ちた世界だ。わたしには退屈極まりないので是非とも避けたいと願うが、生活のために「普通」「公約数」を言語として吐かねばならないのだろう。くだらない。

 今回は以上です。