「無知と無視」の巻

 
 昨今における小学生の社会科の授業では「穢多」と「非人」を教えないそうだ。わたしの時分には習った記憶があるのでこの改定はここ十年ほどの話なのだろう。念のため説明しておくが「穢多」と「非人」は江戸時代の身分制度において四民の下位に置かれた存在だ。彼らは維新後も「新平民」としてやはり差別を受けていた人々、そして、今なお差別を受けつつある人々でさえある。ここにおいてひとつ問題がある。それは大正デモクラシーについて勉強する際に四民平等と全国水平社についてはしっかりと教科書に明記されている点だ。つまり、現代の小学生は「明治期になって突如として差別というシステムが存在した」かのような説明を受けるわけである。江戸時代に士農工商という立派なひとつのジャパニーズ・カーストがあって、そのうえでやはり被差別の人々が存在し、明治という「夜明け」の後においてもなお差別を受け続けたという歴史を小学生は分断された状態で知ることとなるのだ。実に不気味な教育である。
 言うまでもなく差別を受けた、あるいは受けている人々の歴史は進行形だ。この事実はわたしが小学生の時分においてさえ授業では習わなかったことである。言いかえれば、わたしは中学生のときまで日本に人種差別なるものが現前していることを知らなかったのだ。いま考えれば大正期の(ある種の)部落解放運動がどのように戦後、どのように扱われたのかさえ教わらなかった。「いつの間にか差別なんてなくなっていたのだろう」と勝手に結論づけていたのか、それとも「差別」というアクションそのものを全く理解していなかったのか、いずれにせよわたしは無知そのものだったに違いない。「教わらなかったから知らない」という言葉が許されるのはせいぜい小学生くらいまでだからである。
 けれどもわたしは差別の歴史を「教えない」というシステムを看過することはできない。無視は無知よりも意図が働いているぶん、狡猾で性質が悪い行動のひとつである。無視とは「知っていながら敢えて目をそむける」という明瞭な考えがあっての心身の動きだ。換言すれば対象に対して「見てはいけない、聞いてはいけない」というフィルタリングを行なったことの証左でもある。それは個人においてのみ許される。その人の琴線にどうも触れないもの、あるいは好悪の激しく反応するもの、いずれもフィルタリングは精神衛生上必要とされることもあるだろう(これを見分が狭いなどと合点するのは実に浅はかである)。けれども、教育においてそれは決して行われてはならないとわたしは信じている。殊に社会問題においては。日本には人種差別を行政機関が制定していた時期があって、しかもその弊害は未だに続行していることを明確に打ち出さないまでも、教育者は少なからず示さなければならない。この国が単一民族国家で差別闘争が存在しなかったことなどほとんどなかったという真実を、文部科学省は明らかに覆い隠そうとしている。そして「全国水平社」は受験に必要な一単語となり下がってしまう。われわれが今直面している問題であるにもかかわらず、だ。ゆとり教育だの「国と郷土を愛する態度」だの言っているのは瑣末な事象である。その裏では、こうした小さな、しかし重大な「改訂」が行われているのだ。
 
 今回は以上です。