批評:花沢健吾『アイアムアヒーロー』第一巻

 筆者が漫画を買うのは別段めずらしいことでもないが、そして自慢することでもないが全巻揃えるということはほとんどない。とにかく飽きっぽい精神なので長続きしないのだ。それでもかつては「少年の資格」を求めているかのように漫画を買い集めたがやはり途中で面倒になり、もしくは次の単行本を待つのが嫌になり、中途半端な連載漫画作品が本棚を占めているというありさまである。昨今は多少、金銭感覚が身につき、そもそも連載漫画なるものを買わなくなった。買うとしてもすでにすべて既刊であるものなど(例外は『PLUTO』くらいか?)。ということで久々に買ったであろう「現在連載中の漫画の単行本」を手に入れたのでレビューしておく。作品は週刊ビッグコミックスピリッツで連載中の花沢健吾アイアムアヒーロー』第一巻だ。
 花沢健吾は、自尊心だけは強い人間がなんとか社会で足掻いている姿を描くことに長けた漫画家である。たとえば属しているコミュニティ(それは当人の望む望まぬに関わらず)に適応できない人間を描く場合、有象無象の作品においては彼独自の世界を表面に出して物語を構築してしまったり、妄想をギャグ化してそれを「特色」として消化してファンタジー路線へ流し込んだりという手法がとられてきたし、現在もとられていると思う。そして、そのキャラクターが物語において他の登場人物にどのように扱われるかというとなんだかんだで受容されている。それは甘やかし以外の何物でもないけれども、「作品」とは畢竟妄想なのだからそれでもいい、というのが一般だろう。
 しかし、花沢の作品ではそうはいかない。彼らは社会に否応なく直面させられてそのキャラクターを否定されるのだ。社会から浮いた存在である彼らはその周囲たる社会から受け容れられるどころか、撥ねつけられ、無視される。彼らは口の悪い人間がいうところの「社会のクズ」であり存在そのものがうっとうしいと定義される。だが、先にも書いたように彼らの自尊心は人一倍強い。けれども本質は周囲に理解されない。では彼らは社会においてどのように生きるのかというと、表面だけでも適応しようと努力するのだ。当然そんな人間が器用に合わせられるわけもなく、その「研磨」のたびに打ちひしがれて、自分のフィールドに戻っては自身を慰め、次の日もなんとか取り繕ってやり過ごそうとする。その姿は器用さが認められないために実に無様で、社会はさらに彼らを疎外しようとする(ように彼らの目には映る。事実は、先のとおり『どうでもいい』という認識が正しい)。彼らは何の力があるわけではない、ただの一般人なために特異性を表に出して社会を屈服させるわけでもなく、ひたすらにその日その日を過ごしていくのである。すでに花沢は二つの作品を完結させており、いずれもその特色は如何なく漫画に現れている。だが、『アイアムアヒーロー』は違う。これまで登場人物が直面してきたのは、読者たるわれわれが日々直面している、いわば日常だ。ゴミ出しの日が決まっていて自販機は120円で携帯電話のCMを観ない日がない世界だ。花沢作品の人物たちはその日常と自身とのギャップに苦しんだ。言いかえれば、非日常が彼らの住む、あるいは望む世界だった。それでは、彼らと相対する「日常」が崩壊してしまったらどうなるのか。彼らがなんとか擦り合わせようと努めてきた日常が突然、その姿を「非日常」へと変えてしまったら彼らはどのように生きるのか。これはこれまでの花沢作品を花沢健吾自身が放逐する実験である。
 
 
 
 
 
 
などという理屈を終盤の11ページで吹っ飛ばす第一巻。これは2009年のベスト漫画かもしれない。