四畳半紀の終わりに

 まず、タイトルがヒカシューの『20世紀の終わりに』からとられていることに気づいた人には10点さしあげる。

 7月1日深夜(正確には7月2日だが)をもってアニメ『四畳半神話大系』のフジテレビ放映分が満を持して終了した。実はわたしは先々週にいよいよ我慢が出来なくなって原作を購入してしまい、しかも一気に最後まで読んでしまったためフジテレビでの第10話放映の時点でほぼ全体を見渡せていたのだが、その際に既に原作の最終話とアニメ版のそれとは大きく異なっているのを知ったためにやはり原作を把握していない視聴者各位同様(もしくはそれ以上に)今回の落とし方は気になっていた。結果として言わせてもらうと、テレビ・アニメ・メディアであることを最大限に活かした最終話であったと断言できる。ここより後はテレビ版第9話・第10話・第11話と原作第四章を参照するので未鑑賞、ならびに未読の方々はブラウザなりタブなりを閉じることをお薦めしたい。


 さて、筆者が原作を読んだのはテレビ版第9話放映後である。ここで既に筆者にはテレビ版最終話への期待が中年のビール腹よろしく膨れ上がっていた。原作の第四章(=最終章)では『福猫飯店』編と『四畳半紀』編とは連続して描かれているからだ。原作において「私」は福猫飯店へ所属し、さわやか自転車整理軍の長官として着任したものの結局離脱してそのうえで四畳半主義へと埋没する、という流れなのだ。つまり、原作において「私」は小津や明石さん、樋口師匠や相島先輩などの連中と顔見知りであり、『四畳半紀』編へ移って彼らを思い返す際には懐かしさとともに涙する……という場面がある。しかしアニメ版は『福猫飯店』と『四畳半紀』を時間を巻き戻すことによって断絶させてしまった。したがってアニメ版の『四畳半紀』における「私」は小津を名前しか知らないし、樋口師匠の風貌こそ知っているが面識はない。相島先輩も噂程度で、明石さんに至ってはその出逢いこそ覚えていても名前は記憶にない(だからこそアニメ版最終話の『惚れた』という表現がいかに率直で純粋であったかがよくわかり不覚にも筆者は涙腺が緩んだ)。先述の「期待」とはこのあたりをどのように解決するのか、そのお手並み拝見に由来したわけだ。これはアニメも中途半端に見始めて、原作も遅れて知ったという「にわかファン」にのみ許された特権であろうと思われる。
 さて、そんな邪な期待に満ち溢れた精神で鑑賞したテレビ版第10話は呆気なかった。スタッフは「私」を一切と断絶させてしまったのだ。小津も知らない、サークルも知らない、城ヶ崎独裁政権も、自虐的代理代理戦争も、幻の亀の子束子も、香織さんも、「印刷所」も知らないのである。したがって原作に存在した、小津や明石さんを想って懐かしくなって涙を流すというシーンはこの時点ですでに選択肢から外れてしまっているわけで、いわば、アニメ版スタッフは独自のやり方で完結させるという道を自ら設定してしまったのだ。これはなかなかに気合の入った話である。『自転車サークル「ソレイユ」』編は確かにアニメのオリジナル・エピソードであったが、それは「私」の後悔とともになかったことにできる、という点において他のサークルの話と同じ程度、言いかえれば物語の中枢ではなく一分岐点にすぎないために改変したところでその責任は軽い。しかし、結末を改変することは佳境を改変することであり、下手をすれば原作とは相容れない状況に陥る可能性も大きい。かくしてアニメ版『四畳半紀』編は「私」の外界との一切の断絶という点から始まった。
 この発想そのものは先述のとおり原作を破壊しかねない暴挙にもありえるが、しかし、この断絶は(『四畳半紀』における)「私」の、他の「私」が過ごした退屈にして色褪せた二年間に対する憧憬を大いに増幅させる理由づけとして成り立った。原作によれば『四畳半紀』の「私」は福猫飯店を知っているわけだから、そこに憧れを抱くはずもない。しかしアニメ版『四畳半紀』編の「私」には明確な「あったかもしれない価値ある世界」として映るのだ(ちなみにアニメ版第10話において「私」が最初に「個々の部屋は微妙に異なっている」ことに気づくのは福猫飯店の旗による、という流れになっているが、この流れにしたのも『福猫飯店』編が『四畳半紀』編と断絶しており、そこに憧れを示すという図式を意識させるためだったのかもしれない)。これは驚天動地の荒技という他ない。しかもこの断絶は小津に対する欲求へも繋がる。アニメ版第10話で「私」の想像に小津が出てくるが、「私」はそれに対し「居て欲しい」という立場を示す。また、第11話後半において「私」が小津のスマートフォンを拾ったあとに彼を助けようとし、しかもその後では全面的に小津を肯定しているのだ。明石さんを差し置いて、である。それはもちろん、小津の害を被っていないからこそなのだけれども、しかし第9話以前の「私」における小津に対する評価とは正反対である。それまで「私」は小津を妖怪だの不摂生だのと罵り黒い糸で結ばれ日本海溝マリアナ海溝へ沈むかのような呪われるべき運命の元凶だと悲嘆していたが、第11話においては彼を純粋と評している。そしてその理屈は「人は一面的ではない」という結論に達する。つまりは視点の変換である。
 筆者は作品を理解するためにその発言性を重視する。換言すればメッセージの存在しない作品は取りも直さず中身がないと判断する。この観点をしてアニメ版『四畳半神話大系』を評するならば、人生は視点の変換でどうとでも映るということだ。別の言い方をすれば、人生を楽しく彩るも苦しみにぶち込むも本人の見方次第なのだ。第9話までの「私」自身にしてみればその二年間は無駄に終わったかもしれない。しかし『四畳半紀』編の「私」には決して優雅とはいえないまでも充実した二年間であると見做され、その感慨は「私」による「不毛と思われた日常はなんと豊潤な世界だったのか」という一言に集約される。第9話までの小津が妖怪ぬらりひょんもかくやといった風貌なのも「私」による視点の為せる業なのだろう。「小津=厄介者」という公式があればこそ彼はああいったヴィジュアルに「私」には映った、というだけにすぎない。その証拠に第11話の小津はまるで見違えているではないか。筆者を含めた視聴者はおそらく第9話までの小津のヴィジュアルイメージを絶対としてとらえていたことだろう。しかし、あれはあくまで「私」の主観的イメージであることがここで初めて明かされるのだ。なかなかに面白いギミックだった。
 しかしここでもう一人の重要人物である明石さんを挙げなければなるまい。原作全四章において「私」はすべからく明石さんと恋仲になっている。この設定はアニメ版において踏襲されなかった(踏襲されなかった設定はいくつもある。たとえば『コロッセオ』とか。しかしここでそれらは不問としたい)が、これは「私」の二年間を「後悔」に終結させるためだろう。明石さんとの睦まじい日々があるのに巻き戻しを要求するなど不届き千万と言う他ない。さて、原作『四畳半紀』編の「私」は明石さんとの古本市の思い出に浸ることはあっても、「もちぐま」を返すことは諦めてしまっている。それは福猫飯店での活動があり、少なからぬ充実があったから明石さんへの想いが純度を薄められてしまったからではないか。テレビ版『四畳半紀』編の「私」は古本市の出来事を思い出し、明石さんへの恋を自覚し、その原動力が脱出へと繋がる。もちろんそれは小津を含む他人への渇望の一部であることには相違ないけれども、福猫飯店で栄華を味わった「私」と完全なる四畳半主義者である「私」との間おいて、明石さんへの想いが強烈に働くのはどちらかであるかは言うまでもない。考えれば、テレビ版第9話までの「私」は明石さんとの出会いこそあっても恋仲にまでならなかったのはこの「想い」への自覚が薄かったからではないか。サークルに所属し、怠惰でありながらも学生生活をエンジョイ(しかし本人はそう思っていない)していた「私」には明石さんへの淡い恋心こそあれ、どこかに埋もれていたに違いない。だからこそ中途半端に過ごし中途半端に後悔し巻き戻し続けてきたのではなかったか。テレビ版『四畳半紀』編の「私」は他人を渇望すると同時に明石さんへの淡い恋心に自らを向き合わせたのだ。それは勇気である。樋口師匠へのアドバイスもここに起因するものだろう。
 さて、いろいろと書きならべてきたが要は面白かったということだ。が、理屈主義者の筆者は単純な「楽しかった」「面白かった」をよしとしない。ゆえにここまで文字を打ち続けてきたわけだ。つまるところここまでは屁理屈であり戯言に相違ない。こんな暇人の雑文にお付き合いいただいた読者のあなたにこの場をもって感謝したい。そして、願わくばあなたの今日がほんの少しだけ楽しくなることを。しかし言うまでもなく、楽しくするのはあなた自身の技量にかかっている。